先輩から
第90弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第90弾「自転車と汽車での通学」
松永 巌
私の生まれた所は、越後の米所、蒲原平野のど真ん中。周囲を田園に囲まれた僅か二一戸のその名も小字名冲下関と言う所。大学に合格の時、友人が訪ねて来て「君はこんな田舎から良く大学に行く気になったな‼」と称賛か軽蔑か解らない様な事を言って居た。
小学校は信濃川の支流刈谷田川を背にした分校。私の入学前は一二年、三四年、五六年が夫々一級の三級で先生も三名であったが、私の時に進学組が三名居り、有難い事に町の方で校舎を増築、先生も増員して呉れた。
最寄りの上級学校は長岡市に中学、工業、商業、高女と揃ってあり、男性二人と女性一人、夫々希望校に入学した。女性は町に近く一粁程のバス停まで徒歩でバス通学をした居たが、私と中学へ上った男性二人は長岡から三つ手前の見附駅迄自転車で通う事にした。
自転車は駅近くの預り所に預け汽車通学にした。当時は豪雪地帯冬は長岡市内か、見附駅に近い所に下宿せざるを得なかった。
四歳年上の兄が同じ学校に居て、私は殆ど兄のお下りだった。たった一つの新品は自転車で、当時のブランド品で値段は三五円、長兄が奮発して呉れたもので大変嬉しかった。
四歳上の兄が自分の古い物と交換して呉れと言ったが、頑として聞かなかった。
自転車の調子は上々、兄より早く走った。
見附駅までは丁度四粁。自転車でニ十分。七時一二分発の汽車に乗るため七時十五分前に家を出た。自転車を授けたりするため多少の余裕を見ての事であった。当時駅までは舗装道路は全く無く全部砂利道であった。
自転車は時には釘を踏んでパンクする時がある。朝出発前にタイヤを押して確め、空気ポンプで補充して出る時もあるが、時には途中で空気圧が減少しパンク状態になる。限界に来たら降りて押すしかない。
駅までの路程に「燕屋」と言う中年の親父が独りでやって居る自転車店があって此処に駆け込むのである。所がこの親父はスローモーでヘビースモーカー「パンクだ頼むよ‼」と言うと、やおら立ち上ってタイヤを外し、チューブを取り出し、空気を少し入れ、水の入ったバケツに一〇糎位づゝ水につけてブクブク泡の出るパンクの場所を探し出す。水を拭き良く乾かし、その部分に紙やすりを掛けゴムを毛羽立たせ、同時に宛がうゴムも同様にしてゴム糊を薄く延ばして塗る。そこで直ぐ貼るのでは無く煙管を取り出して火鉢の火で火を付け旨さうに一服する。彼に取っては糊の乾く迄貴重な一時であらうが、待つ身の此方は気が気ではない。態度で示すと「急ぐな‼ 充分乾かないとしっかり付かないのだよ‼」と一喝。漸く煙草を止めると手際良くタイヤを収め出来上がり。支払いは「付け」自転車に飛び乗り、全力疾走、駅近くの踏切で列車の位置を確認、急いで所定の事を済ませホームに駆け込む。
幸いな事に当時の汽車は蒸気機関車、直ぐに出発とはならず「タ、シ、カ、ニ」を確認しないと出発しない。タはタブレット(追衝突防止の為の駅間の通票)、シは信号、カは客扱い、ニは荷扱い。友人の父の駅長から直接伺った話である。又時には給水を必要とする為、停止から出発迄時間を必要とした。
幸にパンクの為遅刻した事は無かった。
2025.11.11


