先輩から
第84弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第84弾「私の祖父」
松永 巌

私の祖父松永與平は安政の大獄の前年安政四年(一八五六)一〇月八日、越後(現新潟県)の中農の長男として生れて居る。
話は私の歴史以前のものであり、私が母や長兄から聞いた話を記述するものである。
小字の村は二〇軒余りの極めて小さな集落であるが向学心に燃える人が多かったらしく小規模乍ら寺子屋らしきものがあり、年令を問わず勉学に勤しんで居た様である。
東大医学部に入学はしたが解剖学で人体の解剖を見るに耐へられず中退した人の話。又祖父より八歳年上の入澤達吉氏なども一時一緒であったとも聞いた。入澤氏は東大医学部を卒業後東大教授となり、後に大正天皇の侍医頭(じいのかみ主治医)まで務められ、日本医学の先覚として活躍され、郷里には氏の胸像があり、今にその遺績は語り継がれて居る。長兄が祖父から話として、入澤氏は「與平は俺より頭が良い!!」と祖父を褒めて居たさうである。祖父の学歴は寺子屋卒。
祖父は村では「算者」と謂われる程「算盤」と「暗算」に長けて居たらしく、家で村の総会などがあった時、隣室から計算の間違いを指摘する事などもあった。
長兄の実話として、長兄が中学生の時に祖父に「数学の本を見せて見ろ」と言はれて教科書を出したら算盤でルート2を弾き出したと言って居た。即ち自乗したら2になる数字を算盤を用いて出したので長兄は本当に驚愕したと言って居た。
今は計算器のボタン一つで出来る。
母の話では大変優しい義父で、細かい事に気が付き親切な人格者であったらしい。
残念乍ら昭和二年(一九二七)九月二四日、私の生れる二ヶ月前に六九歳で亡くなって居て不肖私が祖父の生れ変りと言われて来た。私は今でも算盤でルート2を出す事は出来ないが数学は大好きで、かなり難しい数学迄学んだが、算盤と暗算は苦手である。
晩年は不孝にして認知症となり、充分な意思疎通が出来なかったらしいが、家族に愛される好好爺であった由で、母は「生き仏の様な人」と惜しむ様に話すのを聞かされた。
生れ変りと言われ乍ら、人格形成に就いて考えると、祖父の足元にも及ばない事に忸怩たるものを感じる昨今である。
2025.2.2