先輩から
第83弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第83弾「岡村 裕先輩」
松永 巌

岡村先輩に初めてお会いしたのは昭和四一年(一九六六)五月、私がタイヤ機械の技術提携交渉で渡米の時、当時岡村さんは米国三菱商事(MIC)の機械部長と言う職にあって部下には多くの有能なスタッフが居た。
自己紹介されて東大の四年先輩である事を知った。髪は黒々として居て、やや度の強い近眼鏡を掛け、物静かに話をされる方で、仕事に対しての熱意を感じる方であった。その後、何回もMICを訪問する機会があり、食事やゴルフを御一緒する事も度々であった。
時には極く親しい人にしか話せない様な機微に亘る事など、驚く程良く気が付かれて教えて頂いた。
昭和四四年(一九六九)三月私が、アクロン・オハイオを訪問して帰路ニュー・ヨークに寄った時に、自分も任期を終えて六月には東京本社に転勤するから、ニュー・ヨークでは最後と鮨屋に案内された。昼飯だから食事後、御一緒に街を歩いて居たら大きな文房具店があった。私はボールペンを購入すべく店に入った。そしたら店のショウ・ウィンドウにロダンの彫刻「ベーゼ」の模型があった。高さ三〇糎、ブロンズ製で可成り精巧に出来て居て大変気に入ってしまって即購入した。
これを見て居た岡村さんは「俺も買う‼」と言って同じ物を買われた。値段は五〇ドル程で高いとは思はなかったが重さが五瓩位あり、持ち帰るのが辛かった。先輩も同じ物を買われた事を大変嬉しく感じた。帰国の時の引っ越し荷物に入れるのだと嬉しそうだった。
翌日私は単身ケネディ空港からNW〇〇七便にて帰国した。そして数ヶ月、日常業務に復帰して居た。
昭和四四年(一九六九)六月五日の昼頃職場に国際電話があった。ニュー・ヨークの岡村先輩のスタッフからであった。
「岡村さんがメキシコからの帰路、飛行機事故で亡くなられました‼」と言うのであった。受話器を持つ力が抜けて行くのを感じた。帰国直前メキシコへ出張。帰路はメキシカーナ七〇四便にてニュー・ヨークへ向う途中濃霧のため山腹に激突、乗員乗客七九名全員死亡、メキシコ航空機史上最大の事故として発表され、翌日、日本の新聞にも載った。
若しこの事故が無くて先輩が健在であったら三菱商事の幹部としてのみならず、日本の経済界のためにも活躍されたであろうと考えると残念でならない。
先輩のブロンズ像の行方は不明だが、一緒に買った我が家のブロンズ像は、今でも先輩を悼むが如くボードの最良の位置を占めて居り、私もこれを見る度先輩を想い出して居る。
2025.1.8