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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第79弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第79弾「台湾の水車」

松永 巌

 三菱重工は終戦時、財閥解体によって東、中、西の三社に分割された。昭和二七年(一九五二)「三菱」の名称使用が可能となり、夫々三菱日本重工、新三菱、三菱造船と改称された。
 私は改称された直後三菱造船長崎造船所に入社した。長崎造船所は古くから火力発電はやって居たが、水力にも進出すべく改名の年に世界的に有名なスイスのエッシャー・ウィス社と技術提携をした。この様な状況の中で入社した私は直ちに発電水車の設計に従事したのであった。提携したばかりで、三重県、富山県等公益事業の数千キロワットの水車の受注はしたが、電力会社の水車を受注するには数万キロワットの実績が必要であった。
 時恰も台湾電力で台中から三〇粁程東の山中の天冷と言う所に二六五〇〇キロワットの水車の国債入札行われる事になり、これに照準を合わせ万難を排して受注しようと言うことになり、設計を始めとして私が担当になった。
 水車は落差一七一米(最高一八六・五米)水量毎秒一七・五屯。出力二六五〇〇キロワットは今迄設計した事が無く興味津々であったが慎重を期し緊張の日が続いた。水車は中落差のフランシス型、軸の径70糎と言う大形となり、今迄設計した物と懸け離れた大きさになり製造原価も当時の金で約一億円となった。これを幾らでオファーするか所長も入れて大会議が行われた。私が「全部損をしても一億ではないですか!!」と豪語した事が一同の驚嘆と笑いを買ったが、所長は「全部只には出来ないが半分にしよう」との大英断を頂き五〇〇〇万円で入札する事になった。
 入札には日本の日立、新三菱、東芝が参加し、世界各国から入札されたが開札の結果、我が社が一番札となり実績は問わないと受注が決定した。具体的に仕様の打合せを進めるため、私が台湾電力に出張する事になった。
 昭和三〇年(一九五五)三月七日始めて飛行機に乗り、始めての海外出張であった。
 当時台湾は「反共抗俄(共は中国本土、俄はソ連)」のスローガンを掲げ、入国管理が物凄く厳しく、要人の出迎えが必要であった。商事会社の事前の手配で台湾電力の機電処(日本の部)次長の陳蘭皋(ちんらんこう)早稲田大出身、後に総径理(社長)となった人)と言う方が来て居られた。
 投宿した所は台北公園の一画にあった「鉄路飯店(ホテル)」、三月と言ってもかなり暑かったがエアコンなどは無く、窓を開けて夜はベッドをすっぽりカバーする蚊帳が使用されて居た。
 翌日現地商社大生行公司の謝信良(日本教育を受けた中国人だが日本語、英語が母国調)社長同行で台湾電力を訪問した。担当部署の機電処の古達祥処長、昨日空港でお会いした陳蘭皋次長、傅慶騰次長、台南高工出身で日本語の旨い鄭開傅(ていかいてん、自分からロー・スピードと言って自己紹介した)課長、他に日本時代から務めて居る日本人の石田榮一技師等多くの方々とお会いした。
 天冷発電所は建設に当り、中国語で同じ発音の天輪発電所と改名された。強力なネゴシエーターであった外省人(大陸から来た人を台湾人はこう呼ぶ)で日本語は話せず英語しか通じない謝煥邦氏はこの発電所の所属であり、この席に来て居た。
 打合せは台湾電力本社の鄭開傅課長と発電所の謝煥邦技師との打合せになるのだが、謝氏の都合で毎日とは行かず、私も長崎と連絡を取り乍らするので約一ヶ月掛かり漸く英文の契約仕様書を作る迄に漕ぎ付けた。
 当時はタクシーも滅多に無く、有っても高価で、人力の三輪車を利用して居た。太股まで切れ目のある中国服を着た女性も之を利用して居た。
 日本語の通じる車夫も居たが、覚えた片言で「和平北路(フーピンペール)、電力公司(テンリクォンス)」で台湾電力へ、帰りは「鉄路飯店(テルファンテン)」と通じた。
 一ヶ月の間、待ち時間が多く色々な事を覚えた。先ず二週以上になると滞在ビザが切れるので一旦一番近い香港に行き、再入国を繰り返し滞在した事、習い始めたゴルフの練習が出来、名門コースの北投ゴルフ場でプレイ出来た事、又香港では日本で高価なゴルフクラブやドイツのカメラ等が安く手に入り、アメリカ製のゴルフクラブ、ドイツ製ローライ・フレックスが入手出来たのは嬉しかった。
 然し何よりも嬉しかったのは二六五〇〇キロワットの大型水車の受注が出来た事。これは会社に取っても、我が人生に取っても画期的出来事であった様に思うのである。

2024.9.6