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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第78弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第78弾「首相官邸」

松永 巌

 令和六(二〇二四)八月七日の読売新聞の朝刊に渡辺秀央氏の訃報記事が載って居た。氏は田中角栄元総理と同じ新潟三区選出の元衆議院議員である。昭和五一年(一九七六)初当選の時は自民党であったが田中角栄氏とは一線を画して居て、中曽根康弘内閣では官房副長官を務め、宮沢喜一内閣では郵政大臣等を歴任した。その彼が官房副長官の頃、三菱重工で東独の製鉄機械を受注すべく、社を挙げて活動して居た。
 会長を交えて何回も対策会議が開かれて居て私も出席して居た。
 その頃、時の中曽根首相が東独を訪問すると言うニュースが流れた。私は中曽根首相から東独のトップ、ホーネッカー国民評議会議長に受注懇請して貰う事を提案をした。可能性を考えての提案であった。
 同席の金森正雄会長から「そんな事が出来るか?」とお尋ねがあったので「考えて見ます。少し時間を下さい」とお答えし会を閉じた。私は二つの方法を考えて居た。
 一つはこの渡辺副長官を通じて中曽根総理に伝えて貰う事ともう一つは時の通商産業省の畠山襄貿易局長に話して通産省として首相に伝えて貰うと言う事であった。
 畠山局長は私のシカゴ時代、通産省の派遣官として在職して居り、公私共に親交のあった仁で、私より一足早く帰国して数々の要職に就いた人である。昭和三四年(一九五九)東大法学部の出身で鈴木善幸首相の主席秘書官を務め「首相のスピーチは殆ど自分が書くのだ」などと話し、後に審議官となり退官後はJETROの理事長を務め令和三年に他界されて居る。
 その畠山局長に電話をして局長室でお会いする事になった。通産省へはタクシーでは入門出来ず、黒塗のハイヤーで駆け付けた。
 彼の部屋は五〇平方米程で沢山の書類に埋もれた感じで、中年の上品な女性秘書が応対して呉れた。主題は明白で多く語る必要なく久闊を叙する事となったが、中でも渡辺副長官と畠山氏が共に中曽根首相に同行する事になったと聞いた時は心の中で歓喜した。
 渡辺副長官とは昭和五九年(一九八四)一二月、新交通議員懇談会と言う場に根本龍太郎、宇野宗佐他一〇数名の議員等に私がスピーチをした時に小杉徹四秘書と共に会って居て面識があった。名刺箱から探して小杉秘書に電話をしたら彼が会社の事業本部長室に私を訪ねて来て呉れた。一部始終を説明し、金森会長と渡辺副長官の面談の日を決めて貰う事とした。数日後小杉秘書官からの電話で私が一二月一六日第一議員会館七二六号室の渡辺事務所を訪ね、詳細打合せをした。
 年が変り昭和六二年(一九八七)一月三〇日、首相官邸(旧官邸、一九二九より二〇〇五まで、以降公邸。千代田区永田町にあり、鉄筋コンクリート二階建、旧帝国ホテルと同じ「ライト風」の古風な建物)の官房副長官室に渡辺副長官を訪ねる事となった。その日一一時、三菱重工ビル地下二階に漆黒の会長車デボネアが待機して居た。一〇階の会長室から金森会長に随行して同乗し永田町へと向った。金森会長は気さくな方で色々お話して居る中に首相官邸に着いた。車寄せも狭く一台で一杯の感じで、入った玄関も予想より遙かに狭く質素であった。直ぐ赤絨毯が階段から始まりずっと奥まで続いて居た。副長官室は幾つかある筈であるが渡辺副長官の部屋は左側の玄関に一番近い所にあり、南側に面して居り、一月末の真冬にも拘らず当日快晴で物凄く日差しが強く暖い感じがした。諸般の事情は理解済みで名刺交換の挨拶の様なものであった。私には「松永さんのお兄さんの事は良く知って居ますよ」と言うのが挨拶であった。私の長兄は郷里の町長、町村合併後も政治に聊か関係したが渡辺氏とは一線を画した田中氏の越山会々員であった。
 その後事は進み中曽根首相も帰国された。畠山局長から電話を頂き、中曽根・ホーネッカー会談の情況も詳細に報告を受けた。それ程長時間ではないが話題にはなり一応目的は果たされた模様で、金森会長に詳細報告をした。会長も熱心にお聞き下さった。
 然しこの商談は残念乍ら西ドイツのメーカーに破れ失注した。
 その後一九八九年ベルリンの壁が崩壊し、この壁を建設したホーネッカー議長も解任され、東西ドイツは統一された。ホーネッカーもドイツを追われ、娘の居るチリで暮らし、一九九四年亡くなった。
 渡辺秀央氏の訃報の記事を見て、当時の首相官邸を鮮烈に思い出しこの記事を認めた次第である。

2024.8.10