先輩から
第76弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第76弾「補 聴 器」
松永 巌

私は小学校低学年の頃、左耳に中耳炎を患った。毎日二粁程の距離にある街の医者に放課後通う日が暫く続いた。中耳炎は癒えたものの聴力が可成り低下した。それを補うためか右耳の方が非常に発達した。
終戦後長距離電話の性能が悪く聴き取り難かった。昭和三〇年代の初の頃水力発電の設計に従事して居る時 私の居る長崎と神戸の三菱電機と発電機や制御系統の打合せを電話でしたのだが、聞き取れず、私の右耳が代りに活躍する時代があった。後に外国と技術提携をして、国際電話をするにも役立った。
しかし歳を取った現在はこの右耳の性能も劣えて両耳に補聴器を付けて居る。
二〇一六年のある社句会の時、汀子先生から「朔風さん、補聴器付けて居る?」とお尋ねだったので「ハイ!」とお答えしたら、更に「何処製?」とお聴きになったので「デンマーク製です」とお答えし、私から「先生も最近お付けになって、そのお値段もウン十万円とかとお聞して居ますが?」と申し上げたら「違う‼違う‼私のは日本製‼値段だってそんなに高くはありません」と仰しゃって別れた。
暫らくしてメーカーから高難聴向けとして良い製品が出来たとカタログを送って来た。
早速横浜の業者の店に行って確かめた。
確かに現在使用して居るものより精巧で、不要な雑音は拾わず、音声だけを拡大する様に設計されて居た。しかし値段も高く、日本製の十倍程の値段であった。予算の関係もあり、重傷の左耳だけをオ-ダーし、クレジット・カードで支払った。
出来て来たのが二〇一七年の春も押し迫った十二月二十八日。左耳に当てて見たら「ピッタリ‼」小さいローマ字で私の名前迄入って居り、雑音も抑制されて居て快適であった。
二〇一八年の一月修善寺で「年尾先生を偲ぶ会」が開催され、この補聴器を付けて参加した。最初の日の句会に
新しき補聴器効きし初句会 朔風
の句を投句した。
この句が汀子先生の御選を頂いた。
私は遠く離れた席から汀子先生のお顔を拝見し乍ら大きな声で名告をあげた。すると、
先生は笑顔で右手を高く突き上げてガッツ・ポーズをなさった。恐らく前に述べた私との会話を想い出されての事と推察するが、普段余り見た事の無い「お茶目」振りを垣間見た事を今でも懐しく想い出して居る。
2024.6.4