先輩から
第72弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第72弾「日下部富蔵先生」
松永 巌
大正一二年(一九二三)より昭和一九年(一九四四)迄官立長岡高等工業学校の教授をなさった数学の先生である。東京帝国大学の数学科の御卒業で同級生に「函数論」で有名な東大の竹内端三教授と「確率論」や「初等微分積分学」の著書である東京工大の渡邊孫一郎教授が居られ、数学の三羽烏と言われて居た。日下部先生には有名な著書は無いが、立派な教育者であられた。長岡高等工業は私が入学した年に長岡工業専門学校、更には新潟大学工学部と名称が変わるのであるが、私が入学した年の三月に先生は退官となり、講師として私共の数学を担当された。
背が低く猫背、丸刈りの胡麻塩頭、目が細く、声が小さく失礼乍ら風采の上がらない方であった。
授業には前述の渡邊孫一郎著の「微分積分学」をお持ちになって居たが、先生が本をご覧になった記憶は無い。チョークの粉で真っ白になった両袖を擦り合わせて払って居られたお姿は今でも目に浮かぶ。私の席は黒板に向かって左の窓側の前から三番目、左耳の弱い私には絶好の席であった。数学の大好きな私は先生の一言一句聞き漏らさぬ様に聴き入った。先生は終業の一〇分程前に講義を止め「質問は無いか?」とお尋ねになり、質問するのは私位で皆から嫌われた。五分前になるとハガキ大の白紙が配られ、問題が一問黒板に書かれ、答の出来た者から提出し退出する。これが毎回行われた。微分積分は私共にとって全く新しい部門で、私はとても面白く、一問も間違えた事はなかった。
ある日私の机の中に置いた微分積分の本が紛失した。困って先生のお部屋に行って話した。先生は「松永君、君教科書が要るのかね?」と仰しゃるから「大学を受験したいので必要です」と申し上げたら何時も教室にお持ちになって居る微分積分の本を指して「良かったら持って行きなさい!!」と言って本を下さった。私は驚いたが有難く頂戴し、本当に大学受験に使用し今でも大切にして居る。
先生の授業は昭和一九年(一九四四)年末迄続き、学徒動員令が出て、機械、精密、工作の機械三科二〇〇余名群馬県の中島飛行機小泉工場に出向いた。最初の付添い教官は日下部先生とドイツ語の岡崎初雄先生であった。中島飛行機に最初に入門する時、門の両側にエンジンと車輪の無い零戦が列をなして並んで居た。エンジン、車輪の工場が爆撃で遣られて生産出来ないからだと聞いた。その夜教官室に行き日下部先生に「先生、日本負けますよ!!」と申し上げたら先生は「松永君!!負けるのは解って居る。しかし此処には憲兵が居るから他言無用だよ!!」と諭された。
年が明け昭和二〇年(一九四五)の正月、先生からお呼び出しがあり伺ったら「明日私は足利にある日本最古の学校を見に行くが一緒に行かないか?」とのお誘いであった。
数学の先生なのに足利学校に就いて随分精しく御存知で驚いた。
校庭にある見慣れない樹に就いても、これは楷の木と称するもので、中国孔子の廟の周囲に生えて居るものを昔農商務省の役人が現地を訪問した時にその種子を入手し、播種したもので、足利学校と湯島聖堂など数ヵ所にしか無い事も御存知であった。又卒塔婆に書いてある字は梵語でキャ、カ、ラ、バと読む事なども話され、造詣の深さに驚いた。
先生はその後英語の川地理策先生と交代されて終戦を迎えた。九月から学校は再開されたが先生は退職されて居て数学も若い先生に変わって淋しい想いであった。その後一〇月二四日訃報に接したが私の成績簿に一〇〇点を付けて呉れた日下部先生を忘れる事は出来ない。
2024.2.5