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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第71弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第71弾「封 書」

松永 巌

 令和五年(二〇二三)一二月の初め、一通の封書が届いた。差出人は「金森 廣」とある。「はて、何方かな?」と思い乍ら封を開けた。何んと三菱重工の社長、会長をお勤めになり、私が「金森さんの思い出」として「山会」に書いた金森政雄さんの御次男の方であった。私の記事を奥さんの知人でホトトギスの同人の方から紹介され、宛名は私の知人であり、廣さんの義兄である平古場志郎さんに聞いたとあった。記事を読んで「父が居て会話しているようで懐かしく想い出された」と書かれてあり、高校迄過した長崎の事、父金森さんの想い出も記され、機会があったら私の話が聞きたいと名刺が同封されて居た。
 私は大学同級生の首藤治久君のお嬢さんと金森さんのご子息と結婚されて居る事と、金森さんのお嬢さんが、横浜に住む平古場さんの奥さんである事を直ぐ思い出した。
 首藤君は本社へ転勤して、今私の住んで居る近くの新築のテラス・ハウスに住んだが残念な事に間も無く亡くなった。六七歳の若さであった。三〇年前の事である。
 そんな関係で、私は平古場さんにも会いたいと思い、電話とメッセージで連絡し、会う日時を決めて私の所へ廣さんご夫婦と平古場さんに来て貰う事になった。当日妻は先約があり欠席する事で了解を得た。
 私のマンションは最上階の三二階に一〇〇平米程のラウンジがあり眺望が良く、晴れた日には富士山やスカイ・ツリーが見える部屋であり、此所に場所を取った。当日は雲があり両方共見えなかったが、他に使用者が無く独占する事が出来たのは幸であった。
 当日一階の玄関で出迎へ、この部屋へ案内した。
 廣さんは三菱商事の化学部に定年迄勤められ海外勤務のご経歴もあり、流石に商社マンと言う感じであった。私は機械関係であり、現役時代お会いする機会はなかった。平古場さんは長崎時代同じ課であった事もあり、私の後米国三菱重工勤務もあり、剣道は錬士の腕前で、本格的にダンスもやり句友でもある。久し振りに会ったが、それ程変化は無く元気そうであった。
 私の若い時は金森さんと直接の関係は少なかったので、社長、会長時代の話をした。
 米国三菱重工設立時には来米頂き、MU-2に同乗し、各地へ御案内した時のこと、ゴルフをして金森さんのボールと私のボールが空中で衝突して二個共グリーンに乗った事やパリへお供をした時「俺はショーなど見ずに松永君と飲むよ」とご一緒に飲んだ話もした。
 又金森さんと首藤君の古い写真をアルバムから外して差し上げた。
 廣さんは三四四頁の「金森政雄さんの思い出」と一六四頁の「金森政雄さんを偲ぶ」と言う二冊の部厚い本を持参され、返却は何時でも良いとお貸し頂いた。金森さん御自身のお話や様々な研究の経過、色々の人の想い出話、それに学位論文迄ある盛沢山で年末年始にゆっくり拝読するのが楽しみである。
 私一人のお喋りで不快に思われたかと心配したが、皆さんからお礼を言われ安心した。
 最後に私の「山会」の記事で「福岡の豪農のご出身」は誤りで、幼少の頃金森さんの御父上勘一さんは各地を転々とされるお仕事で、父方か母方の実家で過ごされ、小学校に入られた頃福岡に定住されてたが、豪農ではなかったと笑い乍ら訂正された。私は金森さんは良く農業のお話をされ「会社を定年になったら福岡に帰って畑仕事をする積りだ」などと仰しゃって居られたので、てっきり農家のご出身と推察してしまったので大変失礼致しましたとお詫び申し上げた。
 廣さんは本返却の折に又お会いしたいと申されて一同席を立った。丁度その時妻が出先から戻って来てラウンジに入って来て皆さんにお会いする事が出来た。
 皆さんから本当に楽しい一日であったと感謝されたが、一通の封書が齎した有意義な一日となった。

2023.12.31