先輩から
第70弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第70弾 B29と「疾風」
松永 巌
終戦の年(一九四五)の早春。私は長岡工業専門学校の生徒として、学徒動員で群馬県小泉(現大泉町)の中島飛行機の小泉工場で未発表の海軍機の製造に携わって居た。
或る晴れた日の昼休み。工場は完成した飛行機を搬出するための格納庫の様な大きなドアを全開して居た。ひょっと外を見ると雲一つ無い空をB29二機が東から西に飛んで居るのが見えた。初めてではあるがB29である事ははっきり判った。二機目は一機目より稍低く、高度が高いためエンジンの音は殆ど聞こえなかったが、時々太陽の光を反射してキラッと光る時があった。間を置かず、地上から高射砲らしきものが連続して数発発射された。しかしB29の高さ迄は届かず、途中で炸裂し白煙の塊だけが虚しく宙に浮かんで居た。
透かさず日本陸軍の戦闘機二機が追い掛ける様に現われた。その形より陸軍の最新鋭四式戦闘機「疾風」であると判った。速度はB29より速く、一番機がB29の後方の一機に接近した。その時B29の後方からピカピカッと光が出たと思った途端、戦闘機は敢えなく垂直に墜ちてしまった。“あっ遣られた!!”と思って見て居たら、二機目の戦闘機は先頭のB29に追い付き馬乗りの様に体当りをした。
戦闘機は残念乍ら壊滅したがB29の方は急に速度と高度を落として行った。そして痛快な事に後から来て居た二番機がこれに衝突、二機共大破して、ひらひらと言う感じで墜落した。この頃には大勢の工場の人達が外に出て見て居て皆手を叩いて歓喜の声を挙げた。
この光景を奇しくも今は亡き句友の岡安仁義さんが見て居られた。仁義さんは私より一歳年下であるが、矢張り学徒動員で栃木県の或る工場に居られて見て居られた様である。
ある句会で仁義さんがこの光景を話されて居るのを聞き驚いて二人で話し合った事が懐かしく思い出される。
日本側も最新鋭戦闘機二機とその搭乗員を失ったが、B29二機と以後の空爆を避け得た事を考えるとその成果は大きいと思う。
この陸軍の戦闘機の正式名称は四式戦闘機、記号キ84、略称84(ハチヨン)、「疾風」は愛称である。海軍の零戦より精悍な感じがした。陸軍の一式戦闘機キ43、略称43、愛称「隼」と共に同じ中島飛行機太田工場で製造されて居た。太田工場と小泉工場は隣接して居て、飛行場を共用して居たので毎日その勇姿を目にする事が出来て居た。この両戦闘機の設計者は小山悌(やすし)氏。明治三三年(一九〇〇)生れ、零戦の設計者堀越二郎氏より三歳年上で、仙台の第二高等学校、東北帝国大学(現東北大学)機械科の卒業で飛行機の設計者になられた。堀越氏程有名ではないが陸軍戦闘機設計の第一人者で「疾風」の性能は米国の技術者が舌を巻いた程の逸材であった。余り表に出る事を好まれなかった様で、戦後は中島飛行機の後身の富士産業の役員として林業機器の開発などを手掛けられ昭和三七年(一九六二)農学博士の学位を取得されて居て、昭和五七年(一九八二)亡くなられて居る。
2023.12.8