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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第67弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第67弾「三菱重工の守屋さん」

松永 巌

 有名な牧田與一郎社長が急逝され、急遽造船担当の古賀繁一副社長が残余の期間社長をお努めになった後、三重工合併後五代目社長に就任された守屋學治さんの事である。
 岡山の医師の御子息ではあるが医師には成らず、第六高等学校を経て、昭和六年(一九三一)東大航空工学科をご卒業後三菱重工に入社、有名な堀越二郎氏と同じ飛行機屋である。背が高く、がっしりした体格で眼光鋭く、日焼けされた様なお顔色、寡黙ながら御威光を感じさせる方であった。六高時代はボート部のエースでインター・ハイでは怖れられて居たと言う逸話がある。
 守屋さんに始めてお会いしたのは昭和四二年(一九六七)アメリカのタイヤ機械メーカー(NRM)との技術提携が成立し、同社のターク社長等が調印の為来日した時である。
 三菱側は当時の牧田副社長、常務であられた守屋さん他関係者が同席して居た。
 夜の歓迎夕食会が済んだ時守屋さんが私の傍にお出になり「ご苦労であった!俺はお前と酒が呑みたい」と突然仰しゃったので、私は「判りました。それでは守屋さんが長崎にお出になって現場を見てください。日時は追って連絡致します」と言ってお別れした。
 長崎に帰って関係者と相談し急いで実現する事にした。
 先ず宿は長崎一の日本式旅館の諏訪荘、食事の場所は江戸時代から続く旧遊廓で床柱に坂本龍馬が付けたと言われる刀疵のある高級料亭「花月」。当日は「花月」の好意で結婚披露宴でさえ出来る大広間「龍の間」の床の間の前に守屋さんと私の二つのお膳が置かれて居た。刀疵には厚いアクリルのカバーが付けてあったが、守屋さんも真剣に御覧になって居た。勿論私も始めてであった。上席に守屋さんがお座りになり先ず盃を交したら、守屋さんが「松永君が俺に話したい事はあるか?」とお尋ねになったので私は「有ります!!」と即答した。「それは人を採用して頂きたいと言う事です。タイヤ機械を初めてやるに当り、設計技師とセールス・エンジニアとで約十名が必要です」と申し上げた。守屋さんは「解った。人事に言って直ぐ手配する!」と仰しゃった。半年位掛ったが人材は揃った。
 色々なお話があったが今にも耳に残って居るのは「事故を起こさぬ機械を造れ。飛行機は事故を起こすと墜ちる。墜ちたら人が死ぬ。だから事故に対しては極めて慎重にならざるを得ない。想定される事故のマトリックス(縦横に並べる事)を作り、これを次々潰して行く。機械にもそれ程の慎重さが欲しい!!」この言葉は技術者としての私には今でも忘れられない。この言葉と共に「花月}での想い出をお造り頂いた事も決して忘れられない。

2023.8.15 終戦の日に