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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第63弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第63弾「金森さんの想い出」

松永 巌

 三菱三重工合併後、六代目の社長 金森政雄氏の事である。氏は福岡の豪農のご出身で旧制 福岡高校から九州帝国大学工学部治金科を卒業後、昭和一〇年(一九三五)に三菱重工に入社され、主に研究畑を歩まれ昭和三六年(一九六一)工学博士を取得されて居る。
 昭和三九年(一九六四)に長崎研究所長に就任、一時 広島造船所長を務められたが昭和四四年技術本部に復帰、昭和五二年(一九七七)社長に就任された。この様な経歴で物々しく感じるが、実際は気さくな方で皆「金森さん」と呼んで親近感を持って居た。
 若い時に放射性のある物質の研究で目を痛め、黒眼鏡を掛けて居られたが「普段 黒眼鏡を掛けて居るのは気が引けるので出来るだけ薄いのにして居るのだよ」と仰しゃって居た。
 又足が大きく「普通の人の足袋は大きくても一二文位だが俺のは二〇文位あり、母が足袋を買うのが恥ずかしいと言って居た」などと楽しそうに話されて居た。中肉中背、色白の肌で髪は鳥の濡羽色、幾つになられても黒髪であった。
 金森さんとの最初の出会いは昭和二九年(一九五四)入社して間もない頃、私は発電水車の設計を担当して居た。技術資料やデータは提携先のスイスのエッシャー・ウィスと言う会社から来るのであるが、その確認と更なる研究が必要と水車研究室設立の研究伺いを提出、私がその趣旨説明をした時である。時の審査側の研究部次長として出席されて居た。私の説明が済んだ時に審査担当課長が「そんなものは必要ないよ」と発言したので、私は「課長はどの様な根拠でそう言われるのか説明して下さい」と反論した。この発言について私が自分の席に戻ってから金森さんから「君が松永君か?出席の常務から元気があって宜しいとのお言葉があったよ」とお電話を頂いた。研究伺いは審議の結果保留となった。
 この事があってから金森さんから色々お言葉を頂く様になった。お聞きした事を思い出して見ると「あの発言で松永君がどんな男になるか心配して居たよ」と仰しゃって気に掛けて下さって居た様であった。
 最も印象に残って居る想い出は、私が本社の部長で多忙を極めて居る或る日、会長にお成りになって居た金森さんから私の席に電話が掛かって来た。「松永君!今忙しいかね?」とのお尋ね。会長からの電話に「今忙しいです」とも言えず「何事でしょうか?」とお尋ねした所「話があるんだ」とのお言葉。取る物も取り敢えず広い会長室へお伺いした。
 金森さんは応接ソファーに掛けてお待ちであった。「まあ掛け給え!!」とのお声に対面に座った。老秘書の佐藤さんを呼んで「紅茶を二つ」とオーダーされた。お尋ねの件の近況を申し上げ雑談になった。秘書が紅茶を届け退席した。それから金森さんは手品の様にテーブルの下からブランデーの壜を取り出し、先ず自分の紅茶に注ぎ、私にも奨められた。「勤務中ですので!」と申し上げたのだが「まあ、いいじゃないか」と自分と同じ位の量を注がれた。
 それから暫くしたら突然「松永君が国鉄総裁だったらどうするね?」と長崎弁でお尋ねになった。当時、大赤字の国鉄分割論などで世論喧騒であった。私は暫らく考えて「私なら全路線を政府に買い取って貰います。そして、その資金で私鉄の様に沿線地の開発と駅内に商業施設を設け、線路はリースで使用させて頂き、線路や駅屋根を利用し太陽光発電をしたいと思います」とお答えした。「君は面白い事を言うね」と仰しゃったのをお聞きして席に戻った。忘れられない想い出になった。

2023.4.12