先輩から
第62弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第62弾「転勤と牧田社長」
松永 巌
一九七〇年一一月、三菱長崎造船所の機械設計課長をして居る頃のある日曜の夜、本社の堀産業機械部長から自宅に電話があった。
急にとは言わないが、本社に転勤しないかと言う勧告であった。突然の問題であり、暫く考えさせて下さいと申し上げ電話を切った。
三重工合併の時、管理から設計に戻る様に末永所長から言われた時、本来の水車の設計をやりたいので高砂製作所への転勤を申し出たが「君は課長だからそうは行かない。長崎で船、原動機(タービン、ボイラ等の火力発電)以外の産業機械をやって呉れ」と長崎に残る事を命じられた。今度も多分同じ事を言われる思い、翌週の月曜日 所長室に出向いて本社の堀部長の話をした。
所長は私の顔を見詰めて、やおら話を始めた。「人には言わないで良いが、実は牧田の親父(社長の事)が君を本社へ出せと言って来て居る。人が来いと呼んで呉れた時は行くべきだ。俺も昔その様な話があって断ったが後悔して居る。本社へ行くように考えろ!!」と予想に反した回答であった。その他 親しい先輩、友人にも相談したが皆所長と同じ意見であった。勿論 妻にも相談したが妻には反対する理由は無かった。その週の土曜日の夜、堀部長宅に電話をし転勤を了承すると申し上げた。仕事の事、一身上の事を考えて、翌 一九七一年四月一日付とさせて頂きたいと申し出て了解された。
先ずは課長代理の堀昭君(一九四七年熊本工専、現熊本大卒)に説明し、次期課長として全面的な協力をお願いした。彼は海外出張の多い小生を本当に良く助けて呉れた優秀な人(小生と同年であったが、二〇一六年没、御子息は東大教授)。
少ない乍らも車、家具、書籍、衣類等を整理するのも結構大変であった。
本社では関係者が住む所を探して呉れて居た。大田区の東急北千束駅に程近く、「朝日俳壇」の選者 加藤楸邨師の隣接地で、三階建の新築の屋上ベランダ付マンションで申し分の無い住居であった。
万端相整い一九七一年四月五日 本社へ初出勤した。各部署へ着任挨拶。堀部長から兎に角 牧田社長へ挨拶に行けと言われ、直ちに単身 社長室を訪れた。社長は上衣を脱いでワイシャツの腕捲りをして机に向かって何か書きものをして居られた。静かに机の前に進んで小さな声で「社長!!」とお呼びした。社長は顔をお上げになって私を認識されてから椅子をお立ちになり「おお!!良く来た!良く来た!」と二度仰って右手を差し出されて握手を求められた。一瞬 私も吃驚したが、右手を出し社長の手を固く握り締めた。五日に着任した事、二週間後 米国及び欧州へ出張する予定である事を申し上げた。社長は突然「君、アメリカに行くのであればキャタピラーに行き給え!!俺がノーマン副社長に連絡して置く、君があの工場を見たら何か得る物がある筈。必ず行くんだぞ!!」と念を押された。
職場に戻り社長との話を堀部長に報告した。社長直々の命令で有り、直ぐ日程に組み入れ、五月六日朝訪問する旨 社長に連絡を差し上げた。
社長は「解った!! ノーマンに連絡して置く。必ず行けよ!!」と重ねて仰しゃった。
兎に角、転勤着任早々、出張準備 その他に独楽鼠の様に動いて、四月二一日夜 JAL002便にてニューヨークへ出発、米国三菱商事(MIC)本社を訪問。今後の協力をお願いした。
牧田社長との約束通り、五月六日の朝 オハイオ州ペオリアのキャタピラー社のノーマン副社長を訪ねた。工場が広いため車が用意されて居り、リンデン取締役がフルアテンドをして呉れた。
エンジン工場、トラクター組立工場等 全工場を見学。ノーマン副社長の御指示の所為か各工場とも工場長が出迎えて具に案内をして呉れた。昼はノーマン副社長にゲスト用食堂で御馳走して頂き、色々お話を伺って改めて牧田社長の御威光を感じた次第であった。
六月九日帰国後 社長に報告した所、御満足の笑顔であった。
この後 一〇月再度 社長命で渡米し、一一月六日帰国後 出張報告を行ったのであるが、社長は間もなく入院され、一二月一二日 十二指腸潰瘍で急逝された。本当に信じられない晴天の霹靂であった。
2023.8.4