校章
校名
校名

先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第60弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
写真

第60弾「MU-三〇〇」

松永 巌

 MU-三〇〇とは三菱重工(MHI)と米国法人三菱アメリカ・インダストリ(MAI)が開発した双発ビジネス・ジェット機で、双発ターボ・プロペラ機(MU-Ⅱ)の上を目指して開発された航空機である。
 一九七六年より製造に着手、一九七八・八・二九に初飛行し愈々量産と言う時に、大型ジェット機の墜落事故が多発、連邦航空局(FAA)の検査規準が厳しくなり、その初号機にMU-三〇〇が該当し、更にオイルショックなどもあり、販売開始が遅れた曰く因縁付の飛行機で、生産された数も約一〇〇機、登録数も限られて居る。
 三菱製と言う事で愛称を「ダイヤモンド」と称し、その一号機を米国三菱商事(MIC)が所有し「ダイヤモンドーⅠ」と呼ばれて居た。
 一九八三年、米国最大のタイヤ・メーカー、グッド・イヤーに大口のタイヤ製造機の商談があり、担当部長の私が受注懇請に出向く事になった。先ずニューヨークに飛んで「MIC」の近藤健男社長を訪ね、グッド・イヤーの在るオハイオ州アクロンへの同行をお願いした。
 近藤社長は私がシカゴ勤務の頃からの知人として特に親しくして頂いた方で、快く引受けて呉れ、更に社有機の「ダイヤモンドーⅠ」に同乗してアクロンまで往復しようと申し出て呉れた。
 近藤社長は一九四四年東大航空工学科卒業で本当の飛行機屋、私も飛行機野郎と言われる程の飛行機好きで反対する理由はなかった。機はニューヨーク郊外のニューワーク空港に駐機して居り、当日二月八日朝近藤社長の車で空港に着いた。既に操縦士と副操縦士は飛行機の整備を終えて我々二人の到着を待って居た。
 滅多にない機会なので、数枚の記念写真を撮り、タラップを踏んで乗り込んだ。社長から機内の説明を受けた。キャビンは正副パイロット席、客室の座席は豪華な皮シートで、八席、一番奥の一つはトイレと兼用になって居て座席を持ち上げるとトイレになる設計。外に電話機、冷蔵庫にはリッカー、ソフト・ドリンクが入って居た。丁度午前一一時に離陸。
 近藤社長は背が低く、太って居て途中でトイレは嫌だから飲まないと言って、私だけがコーラを飲んだ。エンジンの音も気にならず、社長と話し込んで約一時間でアクロン空港に着いた。レンタカーを私が運転して、アクロンの街で食事をしてグッド・イヤーに到着、担当副社長、重役に挨拶、あと会議室で四名の担当者に技術的な事も含めて私が説明、午後四時頃アクロン空港に待機して居た「ダイヤモンドーⅠ」に乗った。帰りも近藤社長と話、ニューヨークに着けば夜だから「すし」を食べに行こうと仰しゃり、私がMICの担当の青山君に電話をし「三越」の中にあるすし屋を予約して貰った。それよりも何よりも数少ないMU-三〇〇に乗せて貰ったことが本当に嬉しかった。近藤社長はその後一九八六年六月、三村庸平社長の後、三菱商事の社長に就任されたが五ヵ月後の一一月二三日心臓疾患のため急逝された。六四歳であった。
 MU-三〇〇は前述の通り生産が遅れキャンセルが続出、遂に米国の「ホーカー・ビーチクラフト」に全権利を売却され、同社が「ビーチ・ジェット四〇〇」として製造販売、米空軍の練習機にも採用され好評を博して居る。

二〇二二・一一・一〇