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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第59弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第59弾「名前負け」

松永 巌

 私が小学校六年の時の担任は金内徳衛門先生、同級生の徳史君の父上で、三年の時も四年の時も担任であった。小柄ではあったがスポーツ万能で、県の体育大会に競歩の選手として出場されて居り、又テニスもお好きで、私の兄や卒業生を呼んで良くテニスをされて居た。お酒も大好きで先生の鼻の頭はピンク色で、近付くと息が酒臭い時もあった。
 所がこの金内先生、筆を持たせると驚く程の達筆であった。
 その頃新潟県には「学びの友」と言うタブロイド版の学校新聞があって一般記事の他に児童の作文、図画、書方の優秀作品が掲載されて居た。
 金内先生は生徒の書方を載せたいと徳史君と私の特訓を始めた。書方(かきかた)とは現在の習字。「小学校書方手本」と言う教科書があった。
 この手本を書いた人は鈴木翆軒先生である事は金内先生から聞いて居た。六年生の手本の中に「学校運動勉強」と言う頁があり、徳史君と毎日この六文字の清書をさせられた。
 そんなある日、先生が「鈴木翆軒先生が本校に来られる。巌君と徳史は書き方の用具1式を持って本校へ行きなさい。私は自転車で行く」と仰しゃった。
 頃は既に秋深く稲刈りも済んで、朝から土砂降りの雨であった。そんな時は学校までは泥道でぬかるので良く裸足で登校して居て、その日も番傘1本に託して家を出てしまって居た。本校に行くのに裸足では行けない。
 仕方なく下駄箱の中の運動靴を履いて行くしか無かった。雨は出発の時も降り続いて居て、本校まで濡れた靴のまま着いた。用務員室で服装を整い、幾つかの机の並べてある屋内運動場の席に着いた。本校の者も各々席に着いて居た。硯を出して墨を擦り「学校運動勉強」を書き始めた。何枚か書いて居る中に鈴木翆軒先生が現れた。着物姿であった。
 真っ先に私の後ろにお立ちになり、肩越しに私の書いて居るのをご覧になって居たのを私は体で感じて居た。「動」の字を書き終えた時、先生が何か仰言って居たが、緊張と突然で聞き取れなかったが、次の瞬間先生の右手が私の右手の上に被さり「動」の字の「力」の上からしっかりとお書きになった。その時の私の右手は今でも鮮明にその感触を憶えて居て一生の思い出になって居る。
 それから何カ月後の「学びの友」に私の「学校運動勉強」が載って居た。金内先生が私の作品の中から選んで提出されたものが入選したのであった。残念ながら徳史君のは載らなかった。
 長じて本社勤務となり、翆軒先生の系統の日本書道協会に入会し、愈々雅号を頂ける段位になった。私は小学校時代の翆軒先生との事を手紙に書き、出来れば「翆」の一字を頂きたいと申し出た。その結果「翆硯」と言う身に余る雅号を頂き、書道教室開場の認可と桧の看板も併せて頂戴した。
 姓名、雅号、引首の落款印も作り、大会にも何度か出品し入選した事もあったが座る事が多く膝を痛め中断、教室も一度も開かず今日に到って居る。
 余りにも良い雅号を頂き、名前負けしたのではないかと思って居る。

二〇二二・一〇