先輩から
第56弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第56弾「角栄氏と長兄」
松永 巌
一九四七年(昭二二)三月、私は東大に合格し、上京の準備に余念の無い頃であった。
従兄が一人の若い青年を我が家に連れて来た。青年は一九一八年(大七)生まれの二九歳、後に内閣総理大臣になる田中角栄氏であった。四月に戦後初の衆議院選挙が実施され、角栄氏はこれに出馬する決意をして居た。
私の長兄は長年勤めた教員を終戦の時辞め、地元の農業会長をして居た。教え子などが沢山居る為角栄氏が挨拶に来たのである。
嫂が不在で、母が昼飯を供し、お給仕をし乍ら三人の話に加わって居た。角栄氏は例の嗄れ声で、兄たちも低い声であったので、襖一枚隔てた私の部屋には周波数の高い母の声しか聞き取る事が出来なかったが、母も結構世の中の事など角栄氏と話をして居た。
お酒も入って、可成り御機嫌の御様子で帰って行った。
四月には選挙が行われ、新潟三区日本進歩党から出た角栄氏が見事高得票を得て初当選し、やがて後援会の「越山会」も出来、長兄も名を連ねた。
長兄はその後町長のリコール選挙があり、立候補して当選一九五五年(昭三〇)五月町長になったが翌年隣の見附町と合併、見附市の助役となり公共に尽くした。その間にも角栄氏と親交を続け、目白の邸宅にも時々足を運んで居て、郵政大臣の時には次男坊の結婚式に出席して頂き、この頃大きな扇額を頂戴した。「老鶯啼遠林」と大書されて居る。恐らく「老鶯」は長兄,「遠林」は郷里即新潟三区を指すものと思われる。
一九七一年(昭四六)長兄夫婦が私の任地長崎に来た。時に角栄氏は自民党の幹事長であったが、末永聡一郎長崎造船所長と面談した時長兄は「あの男は総理になりますよ」と言い切って居た。
その年私は本社に転勤、翌年の七月母が亡くなった。訃報を得たその日には帰郷出来ず、翌朝特急「とき」の一番で帰った。家に着いたら、首相になって居た角栄氏から既に供物が届けられて居て、祭壇には「内閣総理大臣田中角栄」と金文字交りの名入りの蝋燭が飾られて居た。冠婚葬祭担当の秘書が居るとは聞いて居たが、この様な早い対応の出来るのが角栄氏である事を知らされた次第である。
二〇二二・七・七