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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第55弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第55弾「再び喜多所長のこと」

松永 巌

 再び喜多喜久一第十九代三菱長崎造船所長について述べる。喜多所長は一九二九年東大造船を卒業、三菱に入社、最初は軍艦の船体の設計を担当され、彼の有名な戦艦武蔵の設計にも携わられた。後、造船工作の現場の方に移られたが、経営手腕を買われ企画部長を経て、副所長、所長になられた。機械とは馴染みが少なかったが、所長になられてからは機械に対する指揮指導も厳しく、特に禅問答のごとき文言と半端でない叱責と怒声に社員一同恐れをなして居た。私が初めて所長とお話をしたのは、一九六三年二月、管理課長を拝命して間もない頃、原動機部のあるプロジェクトで所長認可を受ける必要があり、吉見豊原動機部長と津田鐵彌原動機管理部長のお供をして所長室に伺った時である。
 喜多所長と吉見部長は略同年齢で六十歳前後、お二人共髪はロマンスグレーで短躯、所長は大阪弁丸出しだが吉見部長は丁寧な標準語で部下をさん付けで呼ぶ程温和な方で縁無の眼鏡を掛けた紳士。入社以来ボイラーの設計一筋の生粋のエンジニアであった。
 吉見部長から所長への説明が始まって途中で所長が質問された時に吉見部長が回答に詰まられた。その時、聞きしに及ぶ雷が落ちた。温厚な吉見部長はその威光に怖をなし口が効けなくなられた。津田部長からの発言も無かったので、資料は私が作ったもので、詳細は熟知して居たので私が説明を始めた所「課長のお前が解って居るは当たり前だ!!俺は吉見の口から聞きたいのだ」と仰しゃるので私は「それでは所長も怒らないで聞いて下さい。そうすれば吉見部長も出来ると思います」と申し上げた。「解った!!それでは怒らずに聞くから話せ!!」と仰しゃって、吉見部長も気を取り直して説明を続けられ、無事認可を得る事が出来た。
 当時は三重工(東日本、新三菱、三菱造船)の合併の話が出て居り、それに纏わる会議が所長も出席で屡々行われ、怒声を聞く機会も多く「機械は駄目だ!!」とお叱りを何回も受けた。或る時私は「造船は(船)計画(大形ドック建設)で四百億円ものお金を掛けられているが機械には一円もの設備投資もありません。機械を良くするためにお金を掛けて下さい!!」と申し上げた。所長は「解った!それでは何処にどれだけ金を掛けたいか持って来い!!」と仰しゃった。
 それではと造船の(船)計画ではないが(新)計画と銘打って、機械、組立工場の整備拡張、ヒーターボックス・テスト設置等約六十億円の設備計画を提出、認可されて出来たのが(新)計画設備投資である。
 所長はその後胃癌を発症され、長崎医大の附属病院で手術する事になった。所が切開してみたら癌ではない事が解り直ぐ縫合したとの事である。
 私が病院に見舞いに行ったら、ベッドの上に座って小さなテレビをご覧になって居て、「明日退院するよ」と嬉しそうな顔をされて居た。「所長!三菱病院(重工附属病院)ではなくて良かったですね」と言ったら「なんでや?」と仰しゃるから「三菱病院だったら、所長の腹を切って、間違いましたでは院長の首が飛びますよ」と言ったら笑って居られた。
 ゴルフの時に所長の後の組で廻った事があって、所長の組に追い付いた時があった。
 所長は私に向って、「お前は十分距離を置いて来い!!お前が後から来ると落ち着かないよ」と。私が雲仙の九番ホール(二九〇ヤードパー四)をワンオンした事がある事を御存じであった。
 一九六四年所長が本社へ転勤される事になった。後任には機械担当の林静副所長と下関造船所の谷口信吉所長(映画監督谷口仙吉(夫人は女優八千草薫)の実兄)の噂があり林副所長も大変気にされて居た。私は所長にお会いしてダイレクトにお尋ねした。所長は「他所者に長崎の所長が出来ると思うか?」とのお答。私は林副所長の所へ素っ飛んで行って伝えた。林副所長は心から安堵の御様子であった。
 本社へ転勤される時、東京へ出張したら必ず顔を見せろと仰しゃって居たが、私が東京へ行く前に喉頭癌を発症され、常務取締役船舶事業本部長の要職を休職され、自宅療養をされて居た。その頃本社に出張し、ご自宅に電話を差し上げたら「仕事が終わったら、どんなに遅くなっても良いから必ず来いよ。自宅は目白から出るバスの下落合の停留所前だ、タクシーで直ぐだ」と案内された。
 夜八時頃激しい雨の降る中、山手線目白駅に降りた。丁度バスが待って居たのでタクシーに乗る事もないと思い、バスに乗った。
 下落合の停留所で降りたら所長のお宅の真ん前であった。呼び鈴を押して玄関の戸を開けたら所長が玄関で立って待ってお出でだった。「遅いじゃないか!!」とお叱りを受けたが「バス停前とお聞きして居たからタクシーに乗るまでも無いと思いバスで来ました」と言ったら、例の「お前と言う奴は!」と言うお言葉であった。お茶の間にある応接に腰掛け、懐かしそうにお話しされて居たが「サラリーマンが会社に来なくて良いと言われる位辛くて淋しい事は無いよ」と喉頭癌が外部から解るようになって居るのをお見せになり、そろそろと撫ぜてお出でになるのを見て居て、私は泣き出しそうになったが、一所懸命面白そうに話すことで堪えていた。尽きないお話に可成り遅くなって失礼した。
 それから間もなく訃報に接した。下落合でお会いしたのが最後になった。色々な事を今思い出しても涙が滲んで来る。
 喜多所長から厳しくも慈愛に満ちたお言葉を沢山頂いた事を感謝しご冥福をお祈り申し上げる。

二〇二三・一・二三