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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第53弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第53弾「ロバート・インガソルさん」

松永 巌

 一九七六(昭和五一)年から五年程、三菱重工海外要員として米国シカゴに滞在した事がある。外国の大きな都市には大体日本商工会議所と言うものがあるが、シカゴにも「シカゴ日本商工会議所(JCCCと略す)」があり、着任早々その副会頭に推挙された。
 会頭は三井物産の加藤成康シカゴ支店長、私の他に住友商事、三菱商事、丸紅、東京銀行、日本航空、JETRO等のいずれも支店長が副会頭であった。
 年数回現地有力者、在留邦人との会合や懇親会、総領事館主催の諸行事への出席等可成り幅広く活動して居た。
 機関誌も発行されて居て「シカゴ財界人の紹介」と言う項目があり、副会頭が持ち廻りで、その記事の執筆を担当する事になって居た。一九七七(昭五二)年着任して二年目は私が担当する事になった。JCCCの会合でアポイントの取れそうな有名人の名前を数名挙げた中にインガソル氏があり、全員が希望した。
 正しくはロバート・スティーヴン・インガソル氏。三菱重工の提携先のボルグ・ワーナー社の会長、キャタビラー社の取締役等を歴任されて居り、アポイントが取れる自信があった。
 当時の印象を思い起すと、背丈はそれ程高くはないが、背筋の伸びた方で細縁の眼鏡を掛けられて、風貌は安原葉先生に似た感じであったが年の割には若々しく見えた。又話し方も極めて穏やかであった。
 インタビューした時の記事がJCCCの機関誌に載ったものを此処にそのまま紹介したいと思う。面会の日は一九七七(昭和五二)年八月一七日、今から四五年前である。
 「あまりにも有名なインガソルさん。我々日本人には前駐日大使として、特に親近感のある方であるが、シカゴはおろか米国の名士と言っても過言ではあるまい。当社三菱重工の技術提携及び合弁会社の相手先であり、インガソルさんが社長会長を歴任されたボルグ・ワーナー社を通じてインタビューを申し入れた所、ファースト・ナショナル・バンク・オブシカゴの取締役会に出席中であるが、終わってオヘア空港までの車の中で良ければと、面白いアイデアの返事が返って来た。前日は新たに選任されたペオリヤのキャタビラー社の取締役会に御出席で、当日は会議終了後コロラドに出発、十月まではシカゴにお戻りでないとの事で、この機会を逃がしてはと喜んで御一緒する事にした。ワン・ファースト・ナショナル・プラザの地下ガレージで待機、電話付きの豪華なキャデラックに便乗させて頂く事となった。
 米国大使として日本に駐在されるまで、当社等五社との提携・合弁があり、一〇回程も来日され、またキッシンジャー国務長官の元で副長官も務められたこともあり、特に日本通の要人と言える。大使時代、日本で受けた強い印象をお尋ねした所、ドルショック、オイルショック後の経済的重圧に耐えて、日本が良く貿易再興を果たしたことと中国の意向もあるが中国大陸との国交が急速に進展した事であるとお答えになった。勿論我々は当時の大使の陰に陽に御活躍になった功績を忘れてはなるまい。
 今度のロッキード問題(註、当時の田中角栄首相の収賄事件)でも、日本から多くの人達が相談に来たとの事である。当初一部の日本人が米国に抱いた不信感も今や完全に氷解したと御満足の様子であった。一九一四年イリノイ州生まれの六二歳。テニス、スキー、ゴルフ、フィシング何でも好きだが時間が無くてと仰しゃる。東京時代月二回程のゴルフもワシントン時代は年に三、四回に減った由。北海道でとアレンジした家族ぐるみのスキーが、キッシンジャー長官の来日でキャンセルになった事が今でも残念そう。
 四人のお嬢さんも、現在教師をなさって居る末娘を残して嫁がれ、普通の人なら悠々自適と言う所だが、インガソルさんは未だ未だ忙しさが続きそうである」。
 四五年前の記事である事を考えて読んで頂く必要であるが、私に取っては貴重な体験であった。
 氏は二〇一〇(平二二)年八月二二日イリノイ州の御自宅でお亡くなりになって居る。九六歳の長寿であった。

二〇二二・二・二