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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第52弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第52弾「石油と新潟県」

松永 巌

 明治の末期から昭和の初期にかけて「日本の石油王」と言われる仁が居た。その名は中野寛一。弘化三年(一八四六)新潟県蒲原郡金津村(現新潟市)の生まれで、石油掘削に目を付け、明治七年(一八七四)政府の認可を得て事業を始め、草生水油稼人(そうずやかじん)と言われた。
 元来越後平野は微量乍ら石油埋蔵があり、天然ガスを発生する所が多い。新潟市の近辺で公共団体が天然ガスを掘削、貯蔵し無償で各家庭に供給して居る所がある。姉の嫁ぎ先では煮炊き、風呂は勿論炬燵(掘炬燵に配管し、火に素焼の骸骨上の物を被せて暖を取る)まで採用して居た。
 この様な実情から中野氏は掘削を始めたと思われるが、初めはガスばかりで、仲々油脈にヒットせず、最後に奥さんの着物を手放し、明治三六年(一九〇三)二九年目に漸く掘り当てたと亡き母から聞いた。爾来石油掘削が拡がって行った。越後平野は東西に丘陵があり、そこに油田があったので、東山油田、西山油田と呼んで居り、幾つかの石油櫓が立って居た。この櫓を使用して数米のパイプをねじで連結し、先端に削岩機を装着して掘削するのである。
 石油掘削は地層の成分を分析し、石油の有無を判断するのであるが、フランスのシュランベルジャー社のノーハウがあり世界中でその技術を利用して居る。私の生家の真東数粁の所に東山油田の櫓が幾つかあって、私の部屋からも見えた。四六時中掘り続けるので夜になると明かりが灯り、機械の音がガラガラと聞こえて来て居た。
 戦時中は油が不足し、石油探索が拡大されて居た。人工地震を与えてその反射波から探査する方法で我が家の前の木の根っこにもマークされて居たが掘削には至らなかった。
 戦中は松の木の根にある松油脂までも松根油と称し、石油代用として検討されて居た。
 中野氏は中央石油なる会社を設立し、発展させたが、やがては全国組織の帝国石油に吸収合併され、昭和三年(一九二八)亡くなられて居る。
 昭和二〇年(一九四五)敗戦となり産油国から大量の石油が輸入される様になり、新潟沖に大きな油田のある話も立ち消えとなった。産油国や米国内で大量の石油を掘削されたため、掘削機械が必要となって来た。三菱重工では私の部長の頃米国のエムスコ社と組んで、その機械を下関造船所で製造して居り繁忙を極めた。大部分は米国に出荷したが、現在紛争中のミャンマーがビルマと称して居た頃大型機二基を輸出し、その起工式に今は亡き下関の所長執行昭雄君と現地に出向いた事も懐かしい思い出である。
 新潟県では石油には特別の思いがあり、友人でも石油関係に従事した者も多く居る。
 今でも遠くに灯る明かりを見ると、夜の石油櫓を思い出して懐かしい。

二〇二二・一・一