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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第50弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第50弾「東條輝雄氏」

松永 巌

 私が東條輝雄氏の名前を知ったのは昭和一六年(一九四一)十月、父上東条英機氏が戦中最後の首相になった時で、当時私は新潟県立 長岡工業の二年生で、将来は技術者になる夢を見て居る時であった。当時新聞記事で東條首相の次男である輝雄氏の紹介がされて居り、昭和一二年 東大工学部航空工学科を卒業し、三菱重工の名古屋航空機製作所の設計技師である事を知った。軍人の息子であれば当然軍人であろうとの想像と 異なり自分が目指す所の設計技師である事に大きな感銘を受け、自分も東大の航空に行きたいと言う夢を持った事を鮮明に憶えて居る。
 残念ながら昭和二〇年敗戦、自分が目指していた航空工学科は応用数学科と名称も変り全く異なるものになって居り、大学受験の時は飛行機に 近いと思われる機械科にした。
 高校時代終戦まで、群馬県の中島飛行機で海軍機の製造に携わって居た関係で飛行機への関心は高かった。紆余曲折があって私も三菱重工に入社 した。時を経て飛行機も作れるようにはなって居たが関係のない長崎造船所へ入った。先輩に末永総一郎氏(昭一二東大機械卒、後社長となる)が 居て、福岡高校時代東條輝雄氏と同級生であったと聞かされ、色々話をして呉れた。「軍人になれるタイプではなく、とても坊ちゃんなんて言う タイプでもないよ」などと言って居た。昭和四六年私も本社へ転勤、輝雄氏に直接お会いする機会が出来た。
 名古屋に居られた頃は零戦の設計で有名な堀越二郎の下で設計をやって居られたが、終戦後は日本飛行機製造会社に出向、戦後初の国産機YS・11の設計指導に当たられた。この時 の話はNHKの「プロジェクトX」で紹介されて居る。私も飛行機野郎で国の内外に飛行機ショーがあると、海外出張中でも日程を遣り繰りして 見に行った。
 大体そこには輝雄氏が居られ、余程飛行機が好きな野郎だと思われたらしく「貴男は良くお見掛けするがお名前は何と言われますかね?」と 丁寧な言葉で同じ質問を何回か頂いた。その度に名前を申し上げたのだが、残念乍ら最後まで記憶に留めて頂けたか疑問である。軍人の父上とは 全く感触の異なる高僧の様な感じであったが、部下であった人の話に依ると仕事の事になると別人の様に厳しかった由である。
 輝雄氏は最後三菱重工の副社長から三菱自動車の社長を務められ平成二四年(二〇一二)一一月逝くなられた。

二〇二一・一一・一〇