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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第46弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第46弾「堀 切 君」

松永 巌

 大学の同級生、堀切重雄君の事である。
 堀切家は福島の豪農で、千二百坪を超える豪邸は現在も歴史的建造物として保存されて居る。
 彼の祖父の堀切良平氏には長男善兵衛氏と次男善次郎氏が居た。善兵衛氏は東大卒業後ドイツに留学、外交官として活躍された。
 善次郎氏が堀切君の父上であり、東大法科を首席で卒業され、当時の内務省に入省、内務畑に精通され、後に神奈川県知事や東京市長等を務められ、終戦処理の東久邇宮内閣の次の幣原喜重郎内閣の内務大臣や復員担当国務大臣をされた方である。内務省時代に敏子夫人を亡くされ、同省にお勤めの澄子夫人と再婚された。六男四女の子沢山で、堀切君は敏子夫人の最後の四男である。因に五男逸雄、六男睦雄と続くのだと彼は話をして居た。
 大学時代の彼の家は、東大の直ぐ前にある小石川(現文京)区高田老松町と言う所に、数百坪の土地を容する大邸宅であった。後で述べるが、私もこの大邸宅を何回か訪れた事がある。
 彼は当時の公立九段中学、成蹊高校を経て東大入学、私と同級となった。背丈は私と変わらずハンサムであったが、何時もズボンのポケットに手を入れて歩く癖があり、ドスの利いた低い声で話した。彼とは休憩時間、良く安田講堂左手前のキャンバスのベンチで語り合う事が多く、彼の成蹊時代の友人とも会い知る様になった。皆良家の子弟ばかりで今でも懐かしい。
 彼は野球が好きで、プレーする時はキャッチャーをやった。病気をして病み上がりの時に東京ドームまで連れ出し、巨人阪神戦を観て大変喜んで一緒に電車で帰った事もあった。
 最初に彼の家を訪ねた時に、彼が母上に「どの部屋にしますか?」と尋ねるのを聞いて、広い家なんだなーと思った事を憶えて居る。
 澄子夫人は、私と同じ新潟県のご出身で、学校は私の姉と同じである事は既に姉から聞かされて居た。小柄な女性ではあるが明るい感じで、初対面の私にも親しく話し掛けて下さった。驚いた事に物の無い時代にも拘わらず高級な紅茶が出され、しかも滅多に目にする事の出来ない角砂糖が添えられて居た。当時彼も私も煙草を吸って居たので、巻煙草が奇麗な箱に入れられてあった。一本「頂きます!」と言って取出した煙草には「菊の紋章」が入って居た。戦争中軍人に支給された「恩賜の煙草」である。有名な軍歌「恩賜の煙草を頂いて、明日は死ぬぞと決めた夜は・・・・・・・」を思い出した。
 澄子夫人とも色々なお話をして失礼した。暫く経って堀切君が「お袋が君に会いたいと言って居るよ!」と言う。何事かと指定された日に伺ったら実に面白い話。
 私は前号に「国松君」と題して書いた中に、新潟からリュックで米を運ぶ話があるが、この話が夫人に伝って居て「松永さん、新潟に帰る時に、空のリュックに新潟で売れる物を私が準備して上げる!」と仰しゃる。
 「どんなものがありますか?」とお聞きしたら「ズック(布製の運動靴)と抱え鞄があるの」との事。何れも当時は仲々手に入らぬ物で、抱え鞄の方は彼が大学の売店に売り込む事にして、私はズック靴を捌く事にした。
 幸いに私の直ぐ上の兄が、長岡の津上製作所(現ツガミ)に勤めて居て「何でも持って来たら売ってやる」と言って居たのを思い出し、話をしたら大賛成。大きなリュックに何足詰めたか忘れたが、可成り重いのを兄の所へ運んだ。後で兄から「飛ぶように売れたよ。又頼むよ」と言う事で数回実行し、私も少々小遣銭を得た。夫人が如何にして入手されたかは知る由もなかった。
 彼は学生時代動力学(特にディーゼル・エンジン)を専攻し、三菱重工横浜造船所に同級生三名と共に入社し、船のエンジンを担当し、最後は造船所の機械全般を担当する副所長まで昇進し定年退職した。彼の小石川の家は皆が独立し、数百坪の土地は駐車場に転じ、収入は兄弟で分けるのだと言って居た。
 彼は田園調布の環八沿いのマンションに住んで居たが、訪ねた事は無かった。私の家から近かったので湘南方面にゴルフに行く時は何時も私がピックアップする事にして、車中で色々語り合うのが楽しかった。彼は湘南カントリーの十七番で二回ホールインワンをする程の好運児であったが、数回脳梗塞を発症し十年程前に帰らぬ人となった。

二〇二一・六・六