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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第45弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第45弾「国 松 君」

松永 巌

 JRの国鉄時代、国鉄勤務者の家族に対し全国無料パスと言うものがあった。遠距離切符の入手が至難の時代、一般の人には羨望の的 であった。
 この無料パスを語るにあたり、東大の同級生国松剛君に就いて語らねばならない。
 彼は私と同じ越後人、山本五十六連合艦隊司令長官の母校長岡中学(現長岡高校)、旧制新潟高校の出身で、大学入試時上京の車中で知り 合った。互に合格した時に、彼の生家を訪ね、ご両親にお目に掛った。お二人共小学校教師の定年退職者で、壮健であられたが失礼乍らそれ程 裕福には見えなかった。彼には妹が一人居り国鉄に勤務して居た。
 入学後私は浦和の姉の所に住んで通学して居たが一年ほど経って姉の家族は北海道へ移転し、独り暮らしになった。
 この時都内に下宿していた彼に、家賃は要らないが電気、水道(ガスは無かった)代を払ったら住まわせてやると声を掛けたら大変喜んで 移って来て、男二人の自炊生活に入った。彼は私より背が高く、中学高校時代は柔道の猛者で、左腕がくの字に曲がって居た。
 楽譜が読めて少々バイオリンを弾き、歌えばシャリアビンの様な声で多芸であった。
 当時は米、調味料、野菜、パン等何でも配給で皆不足勝ち、何としても若い二人には米が足りなかった。
 私の実家は終戦直前に長年教師をしていた長兄が退職し、名ばかりの農業(実際は従来の小作の人が働いて居た)をやって居たが、後に町の 農協の理事長となった。当時は米の移動は統制されて居り、責任者の「移動証明書」を持ってないと没収された。特に上越線では越後から東京へ ヤミ米を運ぶ「担ぎ屋」が沢山居て、清水トンネル入り口の石打駅ではSLからELに交換するため停車時間が長く、警官が沢山乗り込んで来て 持ち物検査をし、証明書の無い米は容赦なく没収された。
 ここで国松君の妹の無料パスが効いた。「パス」は顔写真も記名も無く誰でも使用できたので、年に数回これを拝借して実家から米を持てる 丈(と言っても三〇キロ位が限度)持ち出した。
 農協の理事長であった長兄は「米穀移動証明書」を発行出来る立場にあり、その度に長兄の事務所に行った。長兄は「この証明書が有れば 何万石でも動かせる。先日社会党の浅沼稲次郎が東京に米を出して呉れと頼みに来た」などと言って居た。長兄はその後リコールにより町長に なったが、寄らば大樹の陰とばかり隣の市に合併し、自らは助役となった。市町村合併の走りであった。
 国松君の妹の「無料パス」と長兄の「移動証明書」で学生時代米に困らなかった。
 国松君は卒業後は「東亜燃料」に入社、石油業界で活躍したが平成二六年(二〇一四)惜しくも鬼籍の人となった。

二〇二一・五・一〇