先輩から
第43弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第43弾「思い出のフライト」
松永 巌
今まで一〇〇〇回近く飛行機に乗ったが、すべてのフライトナンバー(便名)と機種(解る範囲で)をメモして来た。私は記憶も記録
も写生の一貫であると考え、克明にメモする事を大切にして居る。
説明になるが、航空機の便名もそれなりに意味を持つ事を知った。即ち初めの二,三個のアルファベットは航空会社の略称。数字の奇数は西又は
南行、偶数は東又は北行(多少の例外はある)で、数字の少ない程長距離路線を表す。
最初に飛行機に乗ったのは一九五五(昭和三〇)年、台湾に出張した時で、台北に行くには台湾とタイのフライトしか無く、タイ航空の
TAC〇〇一便にした。
欧州へ最初に行ったのは一九六〇(昭三五)年四月スイス航空のSR五〇三便。この事は本誌一四五五(平三〇.三)号に「欧州へ」と題して
書いたので、此処では割愛する。
初めてアメリカに行ったのは一九六六(昭四一)年、日本航空では未だニューヨークへの直行便が無く、俗に「米軍輸送機」と言われたノース・
ウエストNW〇〇二便を利用した。夕刻羽田を出発し、翌日の早朝シアトルに寄ってニューヨークに飛ぶもので、何回か利用した。その中で、
一九六八(昭四三)年五月、この便に乗った時、私が左の窓側に座って居たら、上品な御夫人が右隣の席にお着きになった。間を置かず御夫人の
方から「私は御手洗と言う変わった名前の者ですが、息子がキャノンのニューヨーク駐在をして居りまして、そこへ行く所です」と自己紹介を
なさった。その時はキャノンの御手洗さんを知る由も無かったが、後に社長、会長にお成りになり、経団連の会長と有名に成られ、あの時の
御夫人が御母堂と判り、機中で色々お話した事が懐かしく思われて、NW〇〇二便も忘れる事の出来ないフライトである。
次にJAL〇〇一便の想い出であるが、JAL〇〇一便は太平洋線だけではなく、欧州にも有る事を知った事である(現在不明)。
一九六九(昭四四)年二月二七日私はイタリー、ドイツ、フランスと仕事をして、パリからニューヨークへ飛んだ。これが日本航空JAL〇〇一
便であった。ジェット・エンジン付のDC8で、二月と言う時季的なものも有ってか乗客は僅か数名、乗務員の数より少ないと言った状況。時間が
あって客室乗務員も暇そうであったので、パーサーを呼んで、コックビットの中を見学したいと申し出た。現在では考えられない事であるが、
当時はハイジャックなどは考えられなかったが、やはり容易には開放しない所ではあった。
パーサーは機長と相談するとその場を去ったが、直ぐ帰って来てOKと言った。長い間希望して居た事が叶えられ大変嬉しかった。
パーサーがコックビットのドアをノックすると中からドアが開いて入った。左側前方の操縦士の機長が座席から手を伸ばして握手して呉れた。
右側の座席の副操縦士、航行士、航空機関士を次々紹介して呉れた。
正、副操縦士は共にアメリカ人、他は日本人であった。機は既にオート・クルージング(自働航行)に入って居り、正副操縦士とも操縦稈には
触れて居らず、若い副操縦士のごときは靴を脱いで操縦桿の上に足を伸ばしてる有様であった。短距離やコースを熟知している場合は航行士や
機関士を省略する事もあると言って居た。
現在ではパイロット不足のためAI等の最新技術を駆使して省力化が検討されて居る。
スチュワーデスの話によると、この機体は皇族等のVIPも利用されるもので、特別の更衣室があると言って、その内部まで見せて呉れた。
このフライトがニューヨークについて翌日にトラベラーズチェックの盗難に遭ったりして忘れられないJAL〇〇一便になった。
二〇二一・三・一一