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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第41弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第41弾「牧田社長の想い出」

松永 巌

 戦後財閥解体された三重工が合併し、新しく発足した三菱重工の第三代目の社長が牧田與一郎氏。私が最初にお目に掛ったのは 昭和四二年(一九六七)氏が副社長の時である。当時私は長崎造船所の管理課長から機械設計課長に転じて間もない頃であった。
 牧田與一郎氏は静岡県の由緒ある材木商の末弟、旧制静岡中学四年修了で金沢の第四高等学校へ入学、大正十四年(一九二五)東大経済学部 卒業後、三菱商事に入社された。
 反抗的な性格で上司との争いが絶えず、ドイツ、イギリス、フランス、イラク、イラン等の外国勤務に回わされ、帰国後は同社の機械部門に配属、 機械に就いて猛勉強され、昭和一三年(一九三八)三菱重工に転職された。
 「牧田天皇」「横紙破り」「赤鬼のオマキ」等と言われ、時々物凄い剣幕で怒鳴るので、皆戦々恐々として居た。
 三菱重工合併から三年、設計課長に転じた時、本工場から飛地である幸町工場に船、原動機以外の物を生産せよとの所長命を受け、色々検討の 結果、タイヤを製造する機械をやる事になり、長い交渉の結果米国のNRM(ナショナル・ラバー・マシナリー)社と技術提携をする事が 決まった。契約調印のためNRMのターク社長とマーキー契約担当部長が昭和四二年(一九六七)一一月五日来日した。
 私が両氏を羽田に出迎え、その夜築地の料亭「新喜楽」で歓迎の宴を催す事になって居た。ホテルで旅装を解かれた両氏をハイヤーでお迎え、 「新喜楽」に到着。料亭は当時も今と変わらず、築地の一角を占める大料亭、打水された清々しい玄関を入ると、寄り付きに和服で座って居る 女将の出迎えを受け、二階の待合室に案内された。そこには既に牧田副社長、守屋常務、大野部長、堀次長等本社のお歴々が到着されて居た。
 部屋の右側にはウイスキーの銘品「シーバス・リーガル」のガロン(一ガロンは約四・五立)瓶の新品が一米程の台の上に置かれて居た。 シーバス・リーガルは牧田氏の大好物で、同社からの贈り物であると後で聞いた。
 仲居の女性によって封が切られ、夫々の飲み物の希望を聞いて居た。私は「シーバスのソーダ割り」と頼んだ。
 隣の席の牧田氏は水割りを持って居られて「シーバスをソーダで飲む者など居ないよ」と小さな声で言われた。私は「すみません」とぺコンと 頭を下げて済ませた。その直ぐ後で、ターク社長が「スコッチ・アンド・ソーダ」と私と同じ物を頼まれたので、私はちらと牧田氏の顔を見た。 私と目が合って、照れ笑いをされて居たのを今でもはっきり憶えて居る。
 皆に飲み物が行き渡り、牧田氏の乾杯の音頭と歓迎の挨拶があり、私から両氏の紹介をし「ターク社長はハンディ2と言うプロ級のゴルファー です」と付け加えた。牧田氏がハンディ7のシングル・プレヤーであることを知って居たからでもあった。そこで牧田氏が急に明後日ターム社長 とゴルフをやらうと言い出した。常務、部長、次長に問われたが、揃って当日は都合がつかないと辞退された。
 牧田氏は最後に私に「君はゴルフをやるか」と聞かれたので「一応ハンディは10です」と答えた。「それでは君が付いて来い。他は明日 三菱商事に声を掛けて見よう」と御しゃって宴会に入った。(宴会の様子は省略)
 翌日本社の担当が奔走し、三菱商事の機械担当の木場常務と平岩前米国三菱商事副社長が挨拶に見えて平岩氏が同行する事になった。
 場所は普通ではできない名門中の名門、牧田氏のホーム・コース「スリー・ハンドレッド」(メンバーが三百人台であることから付けられた名と 言う)。
 ターク社長はゴルフ・シューズは持参して来て居たが、長崎から出張の私の分も含めてクラブ等万端整えられて、当日早朝、私がハイヤーで ターク社長とホテルからゴルフ場まで同行。ゴルフ場、プレイの事は省略するが、牧田副社長とのゴルフと言う事で聊か緊張はしたが氏のゴルフに 同行した最年少(丁度四〇歳)であったと思う。

二〇二一・九・二