校章
校名
校名

先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第40弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
写真

第40弾「もう一人の野田君」

松永 巌

 令和二年三月「野田君」と題して本誌に書いたが、私にはもう一人の野田君が居る。
 彼も大学の同級生であるが、前の野田君は九州男子であるのに対し、今度の野田君は江戸っ子。世田谷経堂に実家があり、所謂秀才コースの 一中、一高、帝大と踏んだ男。短身で、黒縁の度の強い近眼鏡を掛け、一高の先輩から貰ったと言う油でテカテカの格好良き角帽を被って居た。
 秀才タイプと言う方ではなく、活溌で活動家であった。
 彼の旧姓は谷口、入学した時は谷口昇治と言った。スポーツマンでもあり、学生時代御殿下のグランドで、一緒に野球をした事もあるが、私 などキャッチ・ボールも確実性が無かったのに対し、彼は忙しいショートの位置を熱した。身体が良く動き、大きな声を出した。
 江戸っ子気質で、地方から来た私などには良く親切にして呉れた。
 学生時代、私は数学、物理を基本とした基礎学を専攻したのに対し、彼は物を動かす内燃機、汽力機の動力学を専攻した。
 卒業して私は研究室に残ったのに、彼は日立造船と三菱重工の二社に合格し、三菱の方を選んだ。そして神戸造船所に入社し、神戸に移り 住んだ。彼はエンジンの組み立て工場に所属し、神戸造船所で会う時は大体現場の菜っ葉服を着ていた。彼が課長になった時に、色々話をした。 そして突然「俺、会社を辞めて養子に行く事にしたよ」と言う。
 彼の話によると「野田酒造」と言う神戸の造り酒屋だと言う。親父さんは我々の先輩の東大機械の出身で、男子が無く、三姉妹の長女と結婚し、 酒屋を継ぎ、姓も「野田」になると言う。「松竹梅」と言う酒を造って居たが、戦後「宝酒造」に乞われて、当時一字一億円で売却した会社だと 言う。
 私が「三菱の課長にまでなった、何故酒屋に?」と問うたら、答えは簡単「俺は酒が呑めて、ゴルフが出来れば良いのだ!」と、あっさりした 返事であった。「松竹梅」を売却した後の酒の名を聞いて忘れたか、聞くのを忘れたかは定かではないが、今は出て来ない。
 只東京銀座の「江戸源」と言う店に入れていると言って居た。
 私が三菱重工本社の部長になった頃は、彼は立派な社長、東京に出て来ると、必ず私の職場に電話して来て、仕事が終わったら「江戸源」に 行こうと誘った。銀座八丁目にあって、間口の狭い店で、女将は痩身の老女であったが、「川崎病」の熱烈な支援者で、川崎病に纏わる本まで 出して居た。一度酔払って酒を溢し、彼女の着物を台無しにしたことがあったが、笑みを絶やさず、肝っ玉の大きいのに驚いた。彼が江戸源での 話の中で「俺が又娘三人なんだよな!」と言ったので「また東大機械出を養子にすれば良いじゃないか」と二人で笑ったが、本当にそうしたか 否かは確かめて無かった。
 神戸に出張した時に「一度付き合え!」と言われ、彼のホームコースの名門広野でゴルフをした事があって、有名な「アリソン・バンカー (顎の出っ張ったバンカー)も経験させて貰った。互いのスコアは忘れたが、親友の野田君と名門でプレーしたことが懐かしく思い出される。
 平成七年一月阪神淡路大震災があった時、直ぐ彼に電話をした。長女が電話に出て、店は壊滅、彼も体調を崩して伏せて居た所、今度の大震災で 悪化、京都の病院に入院した所だと言う。その後暫くして彼の訃報が届いた。その時、私は親友の一人を失った悲しさに涙を堪える事が出来 なかった。

二〇二〇・一〇・一〇