先輩から
第39弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第39弾「東京裁判」
松永 巌
大学に入学して間も無い頃、同級生の五十嵐扶佐男君から声を掛けられた。「何?」と言ったら、いきなり「東京裁判(正しくは
極東国際軍事裁判)を見に行かないか?」と言う。
彼は私と同じ新潟県人、大学で最も早く知り合った仲で、声を掛けて呉れたのだと思う。彼の話によると叔父が東京で弁護士をしている関係で傍聴
券が手に入るのだと言う。
東京裁判そのものに就いては多くの書物になり、映画もある事でもあり、これに就いては述べる事はしないが、日本の占領下一九四六(昭和
二一年)年の五月に始まり、当時テレビの無い時代、NHKのラジオで、一部実況放送がなされて居り、裁判の状況が見学出来ると言う事に大いに
興味を持ち、二つ返事で賛成した。
詳細な日時の記録も記憶も無いが、午後であると言うので、本郷の大学から五十嵐君と一緒に出掛ける事とした。
場所は市ヶ谷台の元陸軍士官学校跡、戦時中は陸軍省と参謀本部となって居た所で、旧帝国陸軍の中枢で、かって陸軍軍人を志望した男達の憧れの
象徴の地であった。
法廷は旧陸軍省の大講堂を改造されたもので、傍聴席は丁度大学の階段教室の様になって居たが、場所が狭いせいか可成り急勾配を感じた。
入場時に当然の事乍ら持ち物検査とボデイ・タッチによる身体検査が行われた。
要所要所には黒字に白抜きの鮮やかなMPの腕章を付け、白いヘルメットの物々しい憲兵が立って居た。
我々二人の席は、階段教室状の最上段で、被告、判事検事の居る所を見下ろす様な場所であった。
定刻になって、先ず日本人の弁護団が入廷して来た。次にキーナン首席検事を始めとした検事団が入廷、梢問を置いてMPに誘導されて被告が
次々に入場して来た。入場の時に傍聴席の人に手を挙げて交信する人も居た。かって栄光輝く著名の人は直ぐ解ったが、名前も顔も知らない人も
居た。
最後にウエップ裁判長以下の裁判官が、黒いガウン姿で入廷し着席した。判事席近くに直立した米国軍人が大声で開廷を宣した。
判事席の後ろには扇形に置かれた連合国の国旗が樹てられ明るく照明されて居た。
当日は記憶に残る様な裁判の場面はなく、白鳥敏夫被告(最終戦位外務省情報部長、刑事責任は「全般的に共同評議に参画し、三国同盟を推進
した」)の論告求刑があった。
担当検事が立上がって検事席に着くと、名前(良く聞き取れず不明)を言うなり、立ったまま、演壇に両肘をついて文書を読み続けるだけの時間が
続いた。被告達はヘッド・セットを付けて同時通訳を聞いて居た様だが、傍聴人には無かった。
私は被告席の一人ずつ名前と顔を照合して居たが、中には名前も顔も知らない人も何人かあった。かって栄光ありし人々でタイ無しのラフな服装の
人も居たが、広田弘毅元首相の様に、キチンと背広にネクタイ姿の方が痛々しく感じた。
やがて閉廷となり外に出たが、私は何か胸につかえる様な感じがして、五十嵐君とも多くを語らず別れた。
あと数十年が経ち、私が本社勤務になった時に、同じ部に広田元首相の孫の弘二君が居た。彼の父上は銀行マンで海外在住で幼少の頃パリに居た
そうで「フランス語は聞けば解ります」と言って居た。彼は後に三菱重工がパリ事務所を開いた時に所長として赴任した。彼には弘太郎と言う兄が
居て三菱商事に居り弘二君の紹介で会った事がある。二人共祖父の弘の字を貰っていることに感銘を受けた。
広田元首相は東京裁判の七名の絞首刑の中で唯一の文人であり乍ら、従容として刑を受けられた事に、感無量のものがあり、今でも広田兄弟に特別
のいとおしさを感じている。
二〇二〇・九・一五