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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第38弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第38弾「「ヴィードル」号」

松永 巌

 私が大学を卒業した昭和二五年(一九五〇)第五次、第六次計画造船なるものがあった。
 戦後世界の景気が上向き、油の移動が激しくなり、大型油槽船(タンカー)の需要が増したためと、戦争中に沈没した船舶の補充が急務で、 政府は造船に対して経済的支援をしたものであった。
 当時は一ドル三六〇円の超円安レート、特にタンカーの輸出に力を入れて居た。
 そのためもあり私の東大機械の同級生七〇人中一〇名が横浜、神戸、長崎など造船所がある三菱重工に就職した。三年の大学院を修了して私が 長崎造船所に入った時は英国船主の二六五〇〇トンのスタンバック・ジャパン、スタンバック・サウスアフリカと言う姉妹船のタンカーを第一、 第二船台で建造して居た。
 昭和二八年一月入社し、直ちに発電用水車の設計製造に携わり、多忙を極めて居たので工場内を見学して歩く余裕などは全くなかった。一年程 して漸く時間が取れそうだった頃に、当時、あの戦艦「武蔵」を建造した第二船台で、超大型タンカーを建造中であることを聞かされて、是非 見学したいと上司の係長に相談した。その係長は、黒縁の眼鏡を通して優しい笑顔で話し掛ける人で、面倒見の良い方であったが早速造船工作部に 連絡を取って呉れて、見学の日時が決まった。
 第二船台とは長崎造船所に六船台ある最大の船台で「武蔵」建造の話は新潮社発行の吉村昭著「戦艦武蔵」に実名入りで詳細記述されているので 割愛するが、艦長二六三米、最大幅三八.九米の巨艦を六八〇米の長崎港に衆目を避けて進水させた船台である。
 さて、当日になり造船工作部を訪ねた。
 事務・管理をする者が数十名居り、担当者が出て来て、建造中のタンカーに就いて説明をして呉れた。船主は米国タイド・ウオーター・タンカー 社、船名は「ヴィードル」タンカーとしては世界最大の四五八〇〇トン、全長二一三米、幅三〇・九米言う巨船。
 その日可成り強い長崎の雨が降って居り屋外の工場見学には相相応しく無かったが、作業は続けられて居るので、傘を指して船台まで歩いて 行った。当時は未だ溶接技術が未熟で接合はすべて大型のリベットで行われて居て作業場は数十個所もあり、リベット・ハンマーの音が遠くまで して居て、船台の所では耳を劈く様で見学者も耳栓をする事になって居た。船台には屋根が無く、皆フード付き雨合羽を着て作業して居た。先ず 雨宿りをする様に船台の盤木に乗って居る「ヴィードル」号の船底に入って驚いた。船底はボートの様な船形を想像して居たが、飛んでもない事 で、見渡す限り真っ平らな広い鉄板であった。
 次に見たのはリベット打ち。地上に小さなコークス炉を置き、リベットを赤く焼いて一個を火挟みで掴んで上の作業者に投げ上げる。
 上方の作業者は火熨斗の親玉の様なもので受け取って穴に差し込む、内側で待機している作業員がエアー・ハンマーで打ち潰し外側はリベット頭 を当て金で押さえ続けて一本の鋲打ちが終わる。このリベットはタンカー一隻で数万本、気の遠くなる様な話である。然し、このリベット建造も 溶接技術の進歩により、工場内で数百トンのブロックにし、これをドックの中で組み立てて行くブロック建造に変わって居る。この事は又の機会に 譲る事としたい。
 後日談であるが、この「ヴィードル」号は昭和三〇年(一九五五)八月七日の進水で大トラブルがあった。二六三米の「武蔵」を六八〇米の対岸 にぶつけずに進水させたのに「ヴィードル」号の時は、進水の朝、担当技師が対岸に衝突すると言い出し大問題になった。あらゆる手を尽くすにも 手遅れで、本当に対岸に衝突した。船の進水はプロペラを付けた船尾が先に行くので、そのプロペラが破損してしまった。数日後ドックのある 佐世保に送られたが、点検中に転落事故があり、死亡事故にまで発展、新聞に大きく報じられ、関係者は重い譴責処分を受け社報にも載り公表 された。しかし、「ヴィードル」号は三ヵ月後の一一月一日無事引き渡しが済み、世界の海で活躍した。

二〇二〇・六・一〇