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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第37弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第37弾「喜多所長と表札」

松永 巌

 昭和三八,九年頃、私は三菱重工長崎造船所の原動機管理課長の職にあった。私の配下の管理係は、製造物の生産工程を掌握して居り。 船舶に搭載するタービン、ボイラ等の主機や補機の工程をはあくし、船の工程を管理する造船管理課と連携して調整して居た。
 或る時ギリシャ船籍のニアルコスという、納期が極端に短く、価格の厳しい三隻の商談中であったが、工程の長い高圧タービン・ケーシング 鋳物を先行して着工した。所が受注に失敗し、ケーシングが不要となった。将来の受注を考え倉庫に保管する事にして、その費用百八〇万円を 所長伺いとして提出した。その時の所長は喜多所長。
 喜多所長は旧制大阪高校から昭和四年東大の造船を出た仁で、短躯にして髪はロマンスグレー、大阪弁丸出しで、厳しく物を見、大声で叱責 されて、皆戦々恐々として居た。
 伺いを提出した翌々日、所長から呼び出しがあり、重い足取りで、恐る恐る所長室へ伺った。予想に反し所長は割と柔らかい表情で「納期が 間に合わぬと言って君等が勝手に作ったものに金は出せない。お前が現場へ行って収納場所を探せ、若し見つけてきたら一%やる!」と笑いながら 書類を突っ返された。
 余り怒られずに早く済んだので、大急ぎで工場に行き、工場長と一緒に方々探し、何とか収納できる場所を見つけた。早速所長室に行って報告 したら「ほら見ろ!!」と言われたが一%の話は黙殺された。
 昭和三九年六月、所長は常務取締役船舶事業本部長として本社へ転勤されることになった。転勤される数日前、秘書を通して所長室へ呼ばれた。 何事かと大急ぎで所長室に入って不動の姿勢でご指示を待った。所長は座ったまま、回転椅子を私の方へ向けて、いきなり「今夜俺の家に来い!! ロータリー・クラブの会合があって帰宅は8時頃になるが良いか?」と仰しゃった。所長宅へのお招きをお断りする理由は無かった。
 その頃私は玄関を改造し、門被りの松などを植えて模様変えをして居た。そして所長に表札を書いて頂こうと檜材の表札を買い求め機会を待って 居る所であった。
 その日帰宅して夕食を済ませ、浦上天主堂近くの自宅を出て「おくんち」で有名な、街の中央にある諏訪神社の隣にある所長宅を訪ねた。所長は まだご帰宅ではなく、奥様がお出になり「どうぞ!どうぞ!」とお茶の間に通された。奥様とお話をして居たら、お酒も入って居たらしく、玄関 から大きな声で「良く来た!良く来た!」と自分の席にお着きになった。
 お酒は出ずに、真剣な面持ちで「長崎を離れるにあたり、お前に話して置きたい事がある」との御言葉三七歳の若ん僧の私にどんな話をなさるのか と耳を澄まして居た。
 「俺は造船の事は全く心配してないが、機械の事が心配だ」と本当に色々な事をお話しされた。「お前は課長だが全体を見る立場に居るの だから、広く物を見るように心がけて頑張れ!!」との激励のお言葉と受け止めた。
 話が一段落した時に「所長に一つお願いがあるのですが」と切り出した。「何んや?」とお尋ねになったので「玄関を改装しましたので、新しい 表札を書いて頂きたいのですが」と言ったら、奥様が「松永さんのお名前は難しい字で、転勤前の忙しい時に大丈夫ですか?」と仰しゃったが、 所長は「ま、置いて行け!!」と受け取って下さった。少し我儘を言い過ぎたかなとも思ったが絶好の機会とも思った。
 翌々日、秘書から表札が出来ているから取りに来るようにと電話があった。喜んで所長室に行くと所長自ら表札をお出しになり、「これを書く のに練習も入れて三〇分掛かった。所長の時給は三万六千円だから一万八千円を支払へ!!」と仰しゃるから、私は「タービン・ケーシングの 倉庫代の一%一万八千円未だ頂いてないので、それでーーー」と言ったら「お前と言う奴はーーー」とお笑いになった。
 この表札は私が本社へ転勤する事になったので、大切に包装し、家宝として今でも大切に保管して居る。
 喜多所長は本社へ転勤後間もなく喉頭癌を発症され、辣腕を発揮される事無く、昭和四十三年八月他界された。
 享年六四歳の若さであった。

二〇二〇・一二・五