先輩から
第36弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第36弾「御萩」
松永 巌
太平洋戦争末期、学徒動員で群馬県の中島飛行機製作所に派遣された。我々技術系学徒は、直ちに現場に配属され、海軍機の生産に
従事した。一同は会社の矢島寮と言う学徒寮に入れられた。建物は木造二階建二十室、六畳位の一室に六名ずつ、トイレは一棟ごとに共同、
風呂は寮に一ヵ所、歩いて二、三分の所にあったが、毎夜文字通り芋洗いのごとく混み合った。
食糧事情も最悪、白米は全く無く、芋(さつま芋)、豆(満州=現中国産の小粒の物で現在では飼料)、高粱(満州産コーリャン)三種の
混ぜ御飯、芋は群馬県が産地で三種中最高、豆は未だしも、高粱は最悪、混合比が高く飯は赤飯の様に見えたが仲々喉を通らなかった。又量も
少なく常に空腹であった。
そんな中、仕事にも慣れて、漸く休みが取れる様になったので、埼玉県の浦和に住んで居る姉を訪ねる事にした。電話もない時代、訪問予定
など詳細手紙に書き、姉から大歓迎と返事があった。切符の入手も儘ならぬ時代どうやって切符を手に入れたか忘れたが、昭和二十年の五月の
日曜日であった。
義兄は不在であったが、姉は四人の子供達と待って居て呉れて、団欒の一時を過ごした。やがて昼飯の時に、姉は立ち上がり戸棚の中から、
やおら一枚の大きな皿を取り出した。
食卓の上に置かれたその皿に盛られて居る物を見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。
その頃絶対と言って良い程、目にする事も口にする事も出来ない「御萩」であった。
しかも子供たちの分もある筈ではあるが、可成の数で、山盛りになって居た。あの頃、砂糖は配給で、しかも微々たるものであったし、小豆も
餅米も普通の家庭では殆ど入手する事が不可能な物であった。
「どうやって手に入れたの?」と尋ねても姉は只微笑むだけで一言も口には出さなかった。
それもその筈、これ等の品々は正当な手段では手に
入らず、ヤミルートか、農家の人と直接衣類などと交換する「物々交換」の方法しか無い事を互いに知って居たからである。
子沢山な姉の家の日常生活も薄々知って居り、その日のために随分無理をして作って呉れた事が瞬時に理解出来、胸の熱くなるものを覚えた。
「頂きます!」と言って食べた時の味は感動的で、子供の頃生家で姉たちと一緒に食べた味であった。餡もたっぷり掛けてあり、とても戦時中
の物と思えなかった。寮の食事を考えた時「地獄で仏に会った」感じであった。
どうやって姉があの食材を入手したかは、その後も一切口にはしなかった。
その日の夕方、寮に帰って同室の者に話をしたら、皆目を円くして驚き、羨ましがられた。
二〇二〇・五・一五