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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第35弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第35弾「配属将校」

松永 巌

 この制度は大正十四年(一九二五)に施行され、軍事教練の指導と監督のため、管轄の師団から陸軍の将校が中学以上の男子校に 派遣されたのである。
 私の郷里の新潟県は仙台の第二師団の管轄下にあり、此処から派遣されて来て居た。
 入学した時は、本間市郎左衛門という長い名前の陸軍少尉が居た。歳は三十才位で、色は浅黒く細身で、眼光鋭く、太い黒縁の眼鏡を掛けて 居て、如何にも陸軍々人と言う仁であった。訓練は殴打こそしなかったが極めて厳びしく、炎天下の歩行、走行、匍匐(ほふく)など,雪中訓練は すきー装着の時もあったが、当時は毛糸製品等の防寒用のものは無く、湿って来ると感覚が無くなる程冷たかった。
 軍事教練は、配属将校ではない予備役の将校、下士官も教師として居たが、特に配属将校の訓練は厳しかった。
 三年生までは徒手訓練だけだが、それ以上になると武装訓練となり、小銃(三八式歩兵銃、騎兵銃)、軽機関銃、擲弾筒、手榴弾等現物を 使用し、取り扱い方を学ぶ。銃は使い古したものであるが実弾を射つ練習もした。
 軽と言っても小銃の何倍も重い機関銃を持たされる時は、本当に辛く、担ぐと肩に食い込む様に痛かった。
 配属将校は殆どが歩兵であったが、四年生の時の中野正雄少佐は砲兵であった。彼は重砲を使う部隊に所属して居たので、大砲を輓くのと、 自分の乗馬(将校には馬が与えられていた)のため、馬の扱いには馴れて居た。
 その為か否かは不明であるが、彼の足は物凄いX脚であった。八等身とは言わないが、顔が小さく、黒いちょび髭が似合った好男子であった。
 中野砲兵少佐は、今までの配属将校と異なり、我々を友達の様に扱い、訓練もそれ程厳しい事を言はず、我々も先輩か兄貴の様に話をした。 「松永は勉強も出来るし、身体も良いから軍隊の学校(陸軍士官学校、海軍兵学校等)に行ってはどうか?」と言われた事があった。私は「皆が 兵隊になったら誰が兵器を作りますか、私は技術屋になるべく工業学校に入りました」と言ったら、黙って頷いて居たのを思い出す。
 気さくな人で、或る時、乗馬を教えるから希望者を集めろと言われ、数人の生徒を集めた。場所は長岡駅の隣の駅から可成りの距離の所にある 馬事訓練所であった。
 少佐は拍車の付いた黒い長靴(ちょうか)を履き、完全に陸軍少佐の容姿で待って居た。先ず少佐が一頭の馬を引いて来て、鐙(あぶみ)に足を 掛けるや否やサッと一動作で乗って見せた。鮮やか!!
 私が真っ先に乗る事になった。勿論乗るのは初めてであったが、少佐の教え方が極めて適切であったと今でも思う。馬の首を左にして立ち、左手 で手綱と鬣(たてがみ)を一緒に握り、左足の先の部分を鐙に掛け、右足を強く蹴って、右手を鞍の後部の高い所に届かせて、一挙に鞍に跨る。
 これで馬上の人となるのだが、この時に注意すべき事は左足先が馬の横腹に触らぬようにする事、触れると馬には発進合図をした事になり、 動き出すからと言う。それから、乗ってからの姿勢、手綱の持ち方など、細かい事を沢山、今でも頭に入って居る程に、教え方が旨かったと思う。
 勿論、乗る前の馬えの接し方、準備すべき馬銜(はみ)の掛け方、鞍の置き方、腹帯の締め具合、手入れの仕方などの細かい点まで短時間に 教えて呉れた。
 配属将校の厳しかった訓練と共に、楽しい忘れられない思い出として懐かしい。

二〇二〇・五・六