先輩から
第34弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第34弾「学校教練」
松永 巌
大正十四年(一九二五)から、学校教練が全国の中学以上の男子校に課せられたため、配属将校なるものが各校に配置された。
各学校には管轄の陸軍の師団から現役の将校が派遣され、その指導と監督に当った。
学校の教科には「教練」と言う科目があり、中学二年までは徒手訓練で、武器は使用しないが、三年からは武器を使用した訓練が始まる。
基本は小銃からで、我々の場合は三八式歩兵銃と言って、実際に第一線で使用されて居る最新式の銃で、銃身の弾を込める部分の上部に、
小さな銀色の菊の紋章があった。
天皇から貸与されたという主旨と教えられたが、我々は軍人ではないので、このマークは鏨(たがね)の様な物で消されて居た。銃を扱う時は
「帯革」と言う巾七糎程のバルトを締める。このベルトには銃弾を入れる「弾入れ」と称する革製の箱を左右に二個(実戦の場合は背中の方にも
付ける)と、銃に装着する「銃剣」を左に付ける。演習の時は空であるから其程重くは無いが、実弾を満載したら、相当の重量になるものと思う。
実弾は危険であるので、目に触れる所には無かったが弾は銅・ニッケルの合金で七瓦、薬莢は銅で十九瓦、装薬は二瓦で一発が約三十瓦、
値段は当時ハガキと同じ七銭と言われて居た。教練の先生が良く「七銭の弾丸に遣られて堪るか!」と仰しゃって居た。この先生は後に出征し、
硫黄島で戦死された。
「着剣!」の号令で銃剣を小銃に装着(ワンタッチで装着出来る様になっている)習った銃剣術で敵を刺し殺す動作を繰り返し練習させられた。
後で出て来る「竹槍」は、これを想定したものである。勿論軍隊の経験のない私は刺したことは無いのは当然である。
射撃訓練も日頃は動作だけで、立った侭で構える「立ち射ち」左膝を立て、射つ「膝射ち」伏臥の姿勢で射つ「寝射ち(又は伏射ち)」の三通り
を繰り返し行う訓練である。
一年に一度だけ野外演習がある。私の郷里新潟県は、仙台に本部がある第二師団に所属し、新発田(しばた)に第十六連隊、高田(現上越市)
にも高田連隊区はあったが、学校としては新発田が近く、この連隊所属の大日原(だいにちはら)と言う演習場を使う事になって居た。宿舎が
あり、前日にここに合宿をして翌朝、霧の晴れぬうちから始めるのである。所が宿舎は南京虫の巣窟で、朝目を覚ましたら、噛まれた跡に残る
三点が無数に身体中にあったが、疲れて居るため痒くて目が覚める事は無かった。
ここでは小銃を持った時のフル装備、即ち脚には脚絆紐(ゲートルとも言って居た)、腰には例の「弾入れ」と「銃剣」の着いた「帯革」を
締め、必需品を詰め込んだ「背嚢」を背負って居た。当時は鉄兜はなく学帽であった。そして、持たされた弾丸は実弾では無く「空包」であった。
空包とは実弾の飛んで行く金属の部分を同じ形で、パルプ紙か柔らかい木で作られたもので、発射して銃口を離れる時に粉々に砕け散る様に
なって居て、音だけは実弾と同じ様にするので、気分は戦争の様な感じが出るのである。
一日中、生徒は赤軍、白軍に分かれて、配属将校の計画した作戦により、実戦宛(さながら)に演習(大掛かりな戦争ごっこ)をした。終了
して、疲れ果て、宿舎前に整列をした。
演習の最後は「弾抜け!」の操作をする。銃を左前方に高く掲げ「弾込め」「射て!!」の操作をして銃に弾丸が残って無い事を確認するので
ある。所がこの時である!!
列の中頃で銃声の発砲音がして左前方にいた生徒が倒れた!!、一大事である。倒れた生徒は直ぐ治療室に運ばれ、射った生徒の周りに先生、
教官が集まって、その他の者は宿舎に引揚げた。その後調査が終わり、再び整列して、教官から説明があった。
発砲した生徒の銃に偶空包が残って居り、「弾抜け」の時の銃の持ち方が正確でなく、銃口が下って居り、左前方の生徒の右後頭部に紙の破片が
飛び散って、当った生徒は音と風圧で倒れたと言う事であった。大事に至らず、全員胸を撫で下ろし、帰りの列車に乗り込んだ。長岡駅に着き、
行軍の隊形を取り、へとへとになって学校に到着、軍装を解いて解散、一同家路に着いた。
この様な訓練は今の時代には考えられないが、私自身は何等かの形で我が人生に貢献して居ると信じて居る。
二〇二〇・四・一六