先輩から
第32弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第32弾「ゴライアス」
松永 巌
昭和三八年(一九六三)長崎造船所の管理課長を拝命して間もない頃、造船担当の竹沢五十衛副所長が私の所にお出でになり、折り
入って相談があるとの事で、応接で話を伺った。竹沢副所長とは昭和一一年(一九三六)東大造船の卒業で、入社早々例の戦艦「武蔵」の建造を
隠蔽する為の棕櫚を買い漁ったことで有名な人である。
話の筋は、世界の油需要が増大し、超大型のタンカーが必要となって来る。一〇〇万トン級のタンカーの建造可能な超大型ドックを極秘に
計画するため、(船)計画と称するプロジェクト・チームを結成する。メンバーが造船屋ばかりでは変化が求められないから、機械屋として
チームに参加して欲しいと言うものであった。
大プロジェクトであり、直ちに直属の津田鉄弥部長を通して機械担当の林静副所長に報告、アイデア・マンで著名の木下克己技師と二人で
チームに参加する事に快諾を得た。
第一回の(船)計画は立神の造船工作部の会議室で行われた。ドアには(船)と書かれた紙が貼ってあり、外から見えない様になって居た。
中には竹沢副所長を始めとする造船の錚々たる顔触れがあった。しかし私より若い新進気鋭の学卒の造船技師も数名居った。
竹沢副所長から計画の概要が説明された。
長崎港外にある香焼島(こうやぎじま)に長さ約一〇〇〇米、巾約一〇〇米、深さ約一五米の建造用と修繕用の巨大ドックを二個作る。工場内
で六〇〇トンまでの大きなブロックを作り、これを台車に載せてドックに運び、ドックを跨いで移動できる巨大な門型クレーン二基を使用し、
ドック内の建造現場に運ぶ、所謂超大型ブロック建造をやるのだと説明があった。この巨大な門型クレーンの俗称が「ゴライアス」と言うので
ある。
本来ゴライアスとは聖書の中の神話に出て来る「ダビデのために殺されたペルシテ族の巨人兵士」の事である。正確にはゴライアス・クレーンと
称すべきであるが、単に「ゴライアス」と呼ぶのが普通である。
どれ位大きいかと言うと、高さが約一〇〇米、門の巾が一八五米、重さ六七〇〇トンと想像がつかない程巨大なものである。
(船)計画の会議はその後何回も続き、建造費の割り当ても決められた。総予算は約四〇〇億円、当時の長崎造船所の年間売り上げに匹敵する
莫大な金額。竹沢副所長は私に「この二基のゴライアスとドックの海水の開閉ゲート機構部分を十一億七000万円で纏めて呉れ、余裕は一円も
無いと」と言われた。
これ程大きな鉄鋼物を造れるメーカーは造船工場しかないのであるが、その造船工場は造船ブームの真最中で、皆多忙を極め、受ける所が
無かった。考えたのは建物の鉄骨を作るメーカーであるが、建築業界も結構忙しく、受け手が無かった。私一人では手に負えず、部下で顔と押し
の効く松本由治君を助手にした。彼は工員席ではあるが有能で体が大きくジャイアンツと呼ばれて居た。彼が鉄骨メーカーの北九州の川岸工業が
やれるかも知れないと言う情報を得て来た。早速私も松本君を連れて小倉の川岸工業を訪ねた。豪放磊落な川岸栄社長はやる気満々であったが、
技術担当の都留信夫部長が慎重であった。社長の弟の憲男専務は、私の1年上の京大出で話が良く合った。最後は竹沢副所長も引っ張り出して、
漸く都留さんを納得させた。社を挙げての取組であった。私も何回も工場を訪ねては進捗状況を把握し、時には憲男専務に北九州のゴルフ場を
案内される事もあった。
漸く完成の日、川岸工業を訪ねて驚いた。入り口の柱が1本外されて居るではないか。都留さんの説明によると、工場から搬出する時に、
どうしても出せなく、柱を外したとの事であった。私も大変恐縮して謝った。
この鉄構物はこれで終わりでなく、これを船に載せて、クレーン取纏め担当の広船造船所に運び仮組をして確認し、解体して船で建設現場の
長崎の香焼島に送ることになる。
ドック工事も着々と進められて居たが、結局二基の六〇〇トンゴライアスが完成したのは、昭和四七年(一九七二)三月、私が本社へ転勤して
一年後であった。その後長崎へ出張した時に松本君を連れてゴライアスを見に行った。
見上げるような高さ、白と橙々に塗られた大きな橋脚、川岸工業が社を挙げて製作して呉れた巨大なガーダー(横桁)は、中央に真紅に彩られた
ススリー・ダイヤを輝かせ橙々色に塗られていた。「ゴライアスよ、安全に頑張って呉れ!!」と心の中で叫んだ。
その後さらに容量二倍の一二〇〇トンの超大型ゴライアスが平成二〇年に完成したと聞いて居るが、未だお目に掛ってない。
二〇二〇・七・三〇