先輩から
第31弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第31弾「家庭教師」
松永 巌
大学生のアルバイトの、代表的なものが家庭教師であるが、入学したばかりでは西も東も解らず、直ぐに見付かるものではない。
東大では、私の学生時代、法文系教室の地下の一階にある売店の入り口に学生互助版と言う掲示板があった。ここで家庭教師が取引されて居た。
「求む家庭教師」は一年生、「譲る家庭教師」は最高学年が多かった。
最高学年になると、卒業論文や就活などと多忙になり、アルバイトなどが出来なくなるからである。
「譲る」の方は、教える生徒の住所、学校、学年、性別、教える学課、報酬が示されて居り、条件が合えば商談成立、謝礼として一ヵ月分の報酬
相当額を払うと言うもので、私の頃は、週一回、各回一,二時間で、月二千円が相場であった。
私は大学院時代、私立高校で数学の講師をして居た時は、家庭教師を頼まれる事も多く、後輩に譲ってやった事が何回もあり、謝礼も頂いたが、
譲った人から感謝もされた。
家庭教師を頼む家庭の中には、生徒の姉の縁談を暗に望んでいるのではないかと思う様なものもあった。そういう気配を感じた時は、何とか
理由をつけて断って居た。
高校講師時代、友人に頼まれて韓国人の高校生を頼まれ、英語と数学の面倒を見た事がある。名前は白南準君と言った。
その学生の自宅は鎌倉駅の直ぐ近く、駅から寿福寺に行く時の線路の脇を通り、踏切の所を右折して数軒目の所。
白君の話によると、北隣は「サンフランシスコのチャイナタウン」で有名な渡辺はま子の家だと言う。或る日、明るい内に来た時に、隣のお宅を
覗いて見たら、確かに彼女らしい女性が、庭のプラントに水やりをして居た。今では様子がすっかり変わって終って見当が付かない。
寿福寺に行く度に、何の辺だったかな!と考えながら通るのである。或る時、その辺りと思われる所で、出て来た人に尋ねて見たが、全く要領を
得なかった。その人は近くの不動産は古いので聞いて見てはと奨めて呉れたが、未だそこまではやって居ない。
白君の両親は、日本語が得意ではなかった様だが彼自身の日本語は流暢で、教えるのには何ら問題はなく、東大を受験したいと言うことで、私も
一生懸命で、当時の相場毎月二千円であったのに五千円にして呉れた。
行く時は、東京からで、鎌倉までは大した事では無かったが、帰りが大変であった。
鎌倉駅までは前述の様に近いが、帰る時間は七時頃になり、横須賀線の上りはガラガラで、一車輛に数人と言う程度、当時は冷房も暖房もなく、
冬は本当に寒かった。家のある浦和までは東京から京浜東北線で更に小一時間。家に着くと十時近くになって居た。
他の家庭教師は全部止めて、白君一本にして、1年間頑張った。
彼も首尾よく東大文学部に合格した。
両親も大変喜んで、一ヵ月相当の五千円の謝礼を頂いた。
彼の学生時代は一度も会う事は無かったが、紹介して呉れた友人の話によると、彼は大学卒業後は韓国に帰ったが、正業には就かず、得意の
ピアノでミュージシャンとして、活躍しているとの事であったが、友人も十年程前に他界し、今となっては知る術もない。
二〇一九・一二・二〇