先輩から
第30弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第30弾「私の名前」
松永 巌
令和元年の十二月に入って一枚の喪中ハガキが来た。裏を見て驚いた。差代人の名前が私の実名松永巌となって居たからである。
つまり、差出人と宛名が全く同姓同名であったわけである。
落ち着いて良く見ると「本年三月父一雄義永眠いたしました」とあった。私の小学校の同級生で、私と同姓の松永一雄君の訃報であった。
彼の家は、私の実家の隣村にあり、実家とは親戚筋で苗字が松永であった。その隣村には他に松永姓の家が何件かあったが、実家との関係は
なかった。一雄君とは還暦の時の同級会以来度々会って居たし、毎年年賀状の遣り取りもして居たのだが、息子に私の名前を付けたとは一度も
聞いた事は無かった。
取り敢えず電話と思い電話をした。若い女性が出て、巌君は留守で、自分は妻であると言う。そして「そのハガキは自分が書いたもので、私も
主人と同姓同名の人が居るものだと驚いた」と言って笑って居た。
一雄君は胃ガンを患い、一年ほど入退院を繰り返し、今年3月薬石効無く、亡くなったと言う事であった。
私の名前を採ったと言う人が他にもあるので、この機会に紹介したい。
一人は私が小学校一年生の時の担任の川口ウメ先生で、ご長男が巌君と名付けられた。
嫂が同じ学校の先生で「川口先生がご長男に「巌」と名付けたそうだ」と教えて呉れたことが記憶にある。
もう一人は、私の伯母の四男坊西本省吾で、私の従兄弟である。彼の妻は、実家の村の出身で、妣の紹介で伯母の家のお手伝いになって居た人で
ある。これも従兄弟の喪中ハガキで、差出人が西本巌となって居たので、電話推して聞いてみた所、こちらの巌君の話によると「両親は、生まれて
来る子供が女の子とばかり思いこんで居て、男の子の名前は考えて無く、急遽、伯母の実家の男の名(即ち私の名)を貰った」と言うので
ある。
抑、、私の名前は兄の名前でもあるのである。父は日露戦争に征った人で、時の総司令官大山巌の名を頂戴して大正十年に男の子が生れた時に巌
と付けた。しかし、その子は二歳の時に夭折し、次に大正十二年に生れた兄に全く異なる尚佐と付けた。然し、父は余程巌の名が好きだったらしく、
昭和二年に生れた私に再び巌と付け、兄弟に同じ名前がある事になった。巌と言う字は、一字で二十三画もあり、幼少期は勿論、今でも書くのに楽
ではなく、入試の時など時間のロスを感じたが、気に入る人もあるものだと、嬉しくもあり、擽ったい様な感じもする。
二〇一九・十二・十二