先輩から
第29弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第29弾「丹羽社長の想い出(敬称略)」
松永 巌
私の入社した時(昭和二十八年(一九五三))の社長は丹羽周夫、大正八年(一九一九)東大機械の卒業、同級生に桜井俊記、
李家孝が居て揃って三菱重工に入社された。
三人は終戦時財閥解体で三社に分割された時夫々社長になった。
東日本重工 李家 孝(りのいえたかし)
中日本重工 桜井俊記(さくらいとしき)
西日本重工 丹羽周夫(にわかねお)
数年経って三菱の名を冠することが許され、三菱日本重工、新三菱重工、三菱造船と改名し、昭和三十九年(一九六四)三重工合併して
三菱重工業(株)一社となった。私は昭和二十七年十一月東大工学部特別研究生として、機械工学科水力実験室で、軸流ポンプの研究に従事して
居たが、就職を希望し、担当の鈴木茂哉教授に相談した。教授は私の目の前で三菱造船に電話をして推せんして下さった。
面接に行ったら社長応接室に通されて、初めて丹羽社長にお目に掛った。同席されたのは肥塚興四郎常務只お一人であった。肥塚常務は丹羽社長
の一年後輩、鈴木教授の一年先輩。鈴木教授の電話をされたのはこの方。
長崎の御出身で「千代鶴」の蔵元。大地主の息子である事を入社してから知った。
最初に口を切られたのは社長で「君は私(わし)の叔父(丹羽重光名誉教授「機構学」の著者)に教わったかね?」とのお尋ねであった。
私は「入学した時は既に退官され名誉教授にお成りで、直接講義を受けて居りません」とお答えした。その他「私も卒業研究は水力をやったの
だが、入口の所のプールは今どうなって居るかね?」など学生時代の事の雑談で、
肥塚常務も髪の少ない頭を撫で乍ら言葉を挟まれて居た。結論は「我々が決めるのではなく、来月長崎から関係者が来るので、その時再度来社を
する様にと言う事で退場した。
丹羽社長は背が高く腰を伸ばし、値段の高そうな背広を召され、鼈甲と思われる太い縁の眼鏡を掛け、当時は最高級の「ホープ」と言う煙草を
吸って居られた。
二回目は入社数ヵ月後、私の初仕事として、中国電力の二三〇KWのゆはら堰堤発電所の水車を受注した時の事であった。この水車はダムの
放水を利用して発電するフランシス水車と言うものであるが、ダムの水位が大きく変わるので設計としては可成りシビアなものであった 。
丹羽社長がどの様にして情報を得られたのかは確かめなかったが、社長から直々に私宛に「水車は小さいが、落差変動が大きいので、注意して
設計する様に」とのテレックスを頂いて本当に驚いた。それから数日して突然私の席の所にお出でになり笑顔で会釈された。
その時は何も仰らなかったが社長のお顔が総てを語って居た。
その水車も設計を終了。試運転も完了し、無事引き渡しが出来た。
二〇二〇・五・二四