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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第28弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
写真

第28弾「銀 翼」

松永 巌

 令和元年九月二十八,二十九日の両日、北信越俳句大会が私の郷里の長岡市で開催された。前日句会の吟行地の中に、山本五十六 記念館があり、多くの人が足を運んだと思う。
 山本五十六とは周知のごとく、ハワイ真珠湾攻撃を実施した、戦中の連合艦隊司令長官で、この長岡市の出身である。
 この記念館の中央に、大きなガラスのショウ・ケースがあり、中に日の丸の付いた飛行機の翼の残骸が置かれて居る。
 大会の二日目、この残骸から次の句を詠み、唯一大久保白村先生にお取り頂いた。

   銀 翼 の  骸 や 悲 壮  秋 深 む    朔風

 この銀翼に就いて、記念館のパンフレットには、次の様な説明文が載って居る。引用すると「長官搭乗機の左翼」と題し「連合艦隊司令長官山本五十六ら十一名の搭乗機一式陸上攻撃機の左翼部分。この機には山本のほか、副官塩崎昇、軍医長高田六郎、参謀樋端久利雄が同乗し、機長小谷立以下大崎明春、田中実、畑信雄、上野光雄、小林春政、山田春雄の乗務員がいた。昭和十八年四月十八日午前七時三十分すぎ、ソロモン諸島パラレ島におもむく途中、アメリカ陸軍の戦闘機の銃撃を受け墜落し、全員が戦死した。昭和五十九年二月山本五十六の生誕一〇〇年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年、左翼の里帰りが実現した」とある。
 この飛行機は記述にもある通り略称「一式陸攻」と言われ、双発の大型で、尾翼の部分が太く、兵が腹ばいの状態で、後方に射撃が出来る様になっていて、胴体がずんぐりしているので俗称「葉巻」と言われて居た。二番機もあり、参謀長宇垣纏少将以下十一名が搭乗、護衛のため零式戦闘機六機も同行した。一番機は攻撃を受けて逃げ廻ったが、遂に被弾、黒煙を発し乍らジャングルに墜落。二番機も海中に落ちた。搭乗の宇垣少将は九死に一生を得て帰還したが、八月一五日の敗戦の報を受け、自ら出陣し帰らぬ人となった。
 山本長官も暫くは生存して居たと言う現地人の話もあるが、公表では機上で、軍刀の柄に手を掛けたまま即死したとされて居る。損壊の少なかった御遺体は現地で荼毘に付され、遺骨となって帰還した。
 日本では六月五日、当時成蹊高校(旧制)の生徒であった長男義正を喪主として、山本がこよなく私淑した米内光政海軍大将を葬儀委員長として盛大な国葬が営まれた。
 御遺族の希望により、郷里長岡の山本家のお墓にも分骨納骨されることになった。
 国葬の二日後の六月七日、長岡に御遺骨が到着する事になり、市内の学校の生徒を始め、団体、一般市民が駅前の大手町通りの両側一杯になって出迎えた。私も長岡工業の四年生で、制服制帽、巻脚絆の正装をして列に加わって居た。情景を思い出すと、長男義正は成蹊高校の白線入りの制帽に学生服で位牌を持ち、喪服の礼子夫人が白い遺骨の箱を胸に抱かれて居た。
 長官は戦死後元帥に列せられ、御下賜の元帥刀、元帥勲章を初め、大勲位、功一級金鶏勲章など、国内外からの最高位の数々の勲章が贈られて居た。
 その一個ずつを紫の袱紗に乗せた三方を夫々海軍士官が捧げ持って、続々と駅正面から降り立ち、延々と続いた光景は、実に荘重であって、今でも忘れる事は出来ない。

二〇一九・一〇・二八