先輩から
第25弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第25弾「米国特許」
松永 巌
昭和五十一年(一九七六)から、約五年間米国に居る間に発明をし、米国特許(U・Sパテント)を取得した。
発明の内容は、車のバッテリーを小型化して着脱可能とし、屋内に持ち込み、充電出来る様にして、着脱の部分(例えば差込み)を車ごとに
異なるものにすれば、盗難防止にもなると言うものである。
着想は、シカゴの冬は極端に寒く、吹き曝しの空港駐車場などでは、バッテリー液が凍結し、サービスカーを待たないと、エンジンが掛からない
と言う現象が良くあるので、この対策として考えたものである。
シカゴの特許事務所の弁理士(パテント・ローヤー)のROW氏に相談した所、彼は「十分にパテントになる」と、申請書類を作成し、
米国特許庁(U・Sパテント・オフィス)に提出して呉れた。
彼は私に「あなたの話は非常に面白い。これからも何か考えたら、他人に話す前に、消せないもので紙に書き、日付と署名をして、持って
来なさい。その日付が発明の日付になる」と言って居た。
やがて審査がパスして、晴れてU・Sパテントとして成立した。
その時私は駐在員ではなく、米国法人「米国三菱重工業」の役員になって居たので、私の発明した特許も、米国の知的財産と言う事になった
のである。
任期を終え、米国の会社から日本の会社に移動することになり、この特許を三菱重工の物にしたいと、例のROW氏に相談した。
彼は、それに必要な書類を作成し、私の署名を求めた。
所が、一国の知的財産を他国に持ち出すと言う、大袈裟なものになり、書類には本人以外に公証人(パブリック・ノータリー)の証印(シール)
が必要であると言うのである。
三菱商事の法律担当の者に聞いた所、支店長の老秘書のベテーさんが、公証人の資格を持っていると教えて呉れた。彼女とは顔見知りであり、
事情を話した所、快く引き受けて呉れた。よく高級ブランデーなどの封に粘土の固くなった様なワックスが用いられて居るがあれと同じワックスを
紙面に置き、印鑑のごときもので押し付け、ワックスの固くなるのを待って出来上りであった。こうして発明者の承諾を得た公正証書として、
米国特許庁に提出し、政府の承認を得て譲渡される。
考えて見れば、知的財産と言う、評価不能な様な価値あるものを、他の国に移動すると言うことは、大変であると言うことを知った。
この特許は以後三菱重工が所有する事となったが、日本ではバッテリーが凍結する程の現象は少く、実用化はしなかった。考え方によれば、
米国に置いていた方が良かったかも知れない。
日本特許の有効期間は二十年、有効を維持するために諸定の費用を毎年特許庁に納入する必要がある。会社としては有効でない特許を毎年調査
し、消去して行く。数年後の調査の時、残念乍ら、権利を放棄する事にした。
日米両国の弁理士費用、申請等の諸経費として多額の社費を消費したが、私個人としても会社としても日米特許について学ぶことが多々あったと
思う。
二〇一九・七・七