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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第24弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第24弾「ホール・イン・ワン」

松永 巌

 昭和三十二年(一九五七)二十九歳の時に始めたゴルフ。昨年(二〇一八)末に止める迄、六十一年の長きに亘り楽しんだ。
 国内は勿論、海外のコースも数多くプレーをした。そして、仲々達成できないと言うホール・イン・ワン(米国ではホールアウト・イン・ワンと 言う)を二回経験した。
  最初は米国シカゴに滞在中の一九七八年五月二十九日、日曜日。家内と二人で全くのプライベートでのプレー。愛用の白と緑のツートン・カラー のサンダーバードを駆使し、シカゴ市内から南へ三十分程走り、リンカーン・シャイアCCと言うパブリックコースに着いた。到着順に四名一組に なってスタートする事になって居り、若いカップルと一緒であった。男性はレイ、女性はロビンと言った。
  夫々二人で一台のカートに乗って出発した。プレーは順調に進み、十七番ホールを終えて、最後の十八番ホールに向った。途中に小さな せせらぎがあり、誰かのボールが一個水に浸って居た。カートを止めて拾い上げて見たら、未だ新しいスポルディングのプロフライト2であった。 次のホールで、これを使ってやろうと思い、そのボールを持って、ティ・グランドに立った。
 距離百七〇ヤード、グリーンは少し高くなって居り、面は見えないが、フラッグは見えて居た。若い二人と家内を先に打たせ、私が最後に打つ ことにした。
  百七〇ヤードは風が無ければアイアンの四番で打つのが通例で、その時も何も考えず、バッグから四番を抜いた。拾ったボールをティ・アップ して打った!!ナイスショットの手応え、ボールは真っ直ぐピンの方へ飛んだ。先に打った二人が、グリーンの面の見える所に居て「ホールアウト ・イン・ワン!!」と大きな声で叫んで居た。家内も「入ったらしいですよ」と言って居た。
  半信半疑でグリーンに行って見た。本当に入って居た!! 初めての経験であったが、それ程の感激は無かった。それは、日本人は家内しか 居なかったからだと思う。このことがシカゴの日本人社会に知れたら大騒ぎになる事は間違いないので、家内には厳重に口止めをした。
  プレーが済んでフロントに話したが、何のお祝いも記念品も無いと言う。米国ではホール・イン・ワンなど日常茶飯事で騒ぐことは無いのだと 知った。
  レストランに行って、例の二人とテーブルを同じくし、奢って呉れたビールをご馳走になり、スコア・カードに証人として二人のサインを 貰って別れた。
  二回目は日本で、平成三年(一九九一)二月二十四日、日曜日、ホーム・コースの横浜CCであった。クラブ・コンペではなかったが、メンバ ーの顔見知りの連中と一緒の組で、その日は天気晴朗なれど、西高東低の冬型の気圧配置が崩れ、南南東の強い風。
  西コース三番の有名な池越えの百七十ヤードのショート・ホール、ティはフルバック、グリーンはベントでピンは大奥。南南東の風は左側からの 強烈なアゲンスト。普通なら四番アイアンの所だが、その日の風ではとても届きそうも無く、六番ウッドを持ったが、考え直して五番ウッドに持ち 変えてティ・グランドに立った。左からの風を意識し、左の高麗グリーンの方向へ。ナイスショットの手応え!フェード系(右へ曲がって行く)の ボールが風に押されて、ピンの方向へ飛んで行くのが見えた。落下地点は確認出来なかったが、グリーン・サイドの前の組の人達から歓声が 上がった。「ホール・イン・ワン!!!」の声が聞こえた。暫し茫然!! 一緒の組の誰かの「ホール・イン・ワンですよ」の声に我に返った。 「嬉しい!」と言うより「大変だ!」と言うのが実感だった。
  ボールを拾わずに待って居て呉れた前の組の方々の祝福を受け、自分自身で拾い上げた。アトラス・キャリードの六番だった。ピンの手前 一メートル位に落ち、転がってピンに当たって入ったとの事である。この時のスコアはアウト四四、イン四六でハンディ九の私には良くなかった。
  幸いに保険に入って居て、最高額の五十万円が手に入った。後日このホールの写真を撮り、これを用いてテレホンカード五百枚作ったり、 同じ組や前の組の人にお礼をしたり、キャディに寸志を上げたりして散財。日本では大変な事なのである。横浜CCからは記念品とボールを飾る スタンドを貰った。スタンドはもう一つ同じものを手に入れ米国でのボールも一緒に飾って居る。テレホンカードを送った人達から祝福とお礼の 手紙を沢山頂き、今でも大切にいているが、亡くなられた方も多くなった。

二〇一九・四・三