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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第23弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第23弾「野田君」

松永 巌

 昭和三十五年(一九六〇)技術習得のため、スイスのチューリッヒに滞在して居た時の事である。大学の同級生である野田日吉君が、 ヨーロッパを訪問の折、私に会いたいとの情報があった。
 野田君は九州熊本の出身で戦争中、日本の租借地であった旅順の工科大学予科に学んでいた、旅順は第二次大戦後、ソ連の管理下に置かれたが、 一九五五年中国に返還され、今は中国である。彼は終戦後、引揚げて熊本に戻り、第五高等学校を経て東大入学、私と同級生となった。卒業後は 三菱商事系列の日本食品化工と言う会社に入社、将来嘱望されて居た仁であった。背が高く、やせ形で、それ程目立つ方では無かった。 日本食品化工は、我が三菱重工の客筋でもあり、チューリッヒで接待する事を考えた。
 取り敢えず空港に出迎えた。元々気取らない彼は、質素な服装で、典型的な日本のサラリーマンという格好で、眼鏡の奥の細い眼を一層細くして 嬉しそうであった。その日はホテルで食事をして別れた。
 チューリッヒは市内にチューリッヒ・ズイー(湖)という細長い湖があり、これをまたいでロープ・ウエーがあった。何でも、工事に使用した ものをそのまま残して観光施設として運営して居るが、景観を損ねるので将来は撤去されると聞いたことがある。私も兼々一度乗って見たいと 思って居たので、野田君に話したら、彼も快く同意して呉れた。
 翌日、彼のホテルに行き、チューリッヒの町をウインドー・ショッピングをし乍ら、ロープ・ウエーの発着場に着いた。工事用を転用したと 言うだけあって施設は極めて簡素、切符売り場と係員が一人、客も殆ど無かった。
 切符を買って、四方ガラス張りの二米角位のゴンドラに野田君と二人だけで乗った。
 ゴンドラは徐に動き出した。ケーブルの高さは精確に知る所ではないが、二百米位はあったと思う。ゆっくりと湖を横断する時は、実に景観で あった。当時は公害汚染などの言葉さえ無く、湖は青々として居り、余り広くない市街の全貌が見え、所々に立つ教会の塔も美観を呈して居り、 野田君もご満悦の様子であった。
 終点に着いたが特別な施設も無く、小休止をして直ぐ帰ることにした。同じ様に、二人だけでガラスの箱に乗って動き出した。
 順調に動いて居ると見えたが、湖の略中央に来た頃に、大きく揺れて、途端に停止して終った。時計を見たら二時半であった。初めは直ぐ動くと 思ったのに中々動かない。
 野田君と色々話をして居たが、心配になって来た。ドアは勿論内側から開かない様になって居り、勿論開ける理由も無い。上を見ればグリースで 真っ黒に汚れたロープがあるばかり、下を見れば、湖のさざ波がキラキラ光る湖面だけ。遠くの景色を眺める精神的余裕は失って、只菅時の経過を 待つばかりであった。三〇分ほど経ったら気分が可笑しくなって来た。高所恐怖症と閉所恐怖症が一遍に来た感じだ。野田君も次第に口数が減って 来て居た。「待つしか無い!」が二人の結論である。四十分位経った時、漸く動き出した。
 二人共本当にホッとした。暫くして地上の人となり、野田君に詫びた。彼も相当ショックの様子であった。夜再び夕食を共にし、ホテルで別れ、 彼は次の旅程に従って行った。
  後に私も本社に転勤し、彼のオフィスの近くになり、時々食事を共にしたが、ロープ・ウエーの事を口にした事はなかった。 彼はその後日本食品化工の社長になり仕事の上で色々お世話になった。三年前平成二十八年の級会で「大動脈瘤を抱えており、何時破裂するか解らぬ」 と笑い乍ら言って居たが、翌年三月遂に破裂し、再び会う事が出来なくなった。