先輩から
第22弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第22弾「台湾の思い出」
松永 巌
私が初めて台湾に行ったのは、三菱重工長崎に入社して三年目の、昭和三〇年(一九五五)三月、台湾電力の大型水車受注のための
技術的問題の打ち合わせが目的であった。
当時の羽田空港は旧建物で、日航はまだ無く、タイ航空(TAC)と中華航空(CAT)の二社で、勿論私自身、海外出張も飛行機とも初体験で
あった。台湾の税関が厳しく、台湾側の要職の方の出迎えが必要で、台湾電力の陳蘭皋(チンランコウ)(早稲田大学卒、後に台湾電力総経理、日本の社長)
という方の出迎えを受けた。案内された宿所は、台北公園の一角にあった鉄路飯店(鉄道ホテル)、台北で最高級のホテルであったが、エア・コン
などは勿論無く、三月でも相当暑く、窓を開けて、ベッドをカバーする蚊帳を使用していた。
未だ、至る所で日本語が通じ、三菱商事も普通の店の二階を事務所にしていた。
仕事は詳細打ち合わせのため時間を要した。
課長は台南商高出身の台湾人で、日本語も流暢で、良く日本語で冗談を言う人であったが、担当者は外省人(大陸から戦後来た人)で、打合せは
総て英語で、中々手強かった記憶がある。
滞在期間は丁度一ヵ月、手待ちの時間もあり、初めてゴルフなるものを習得した。有名な陳清波や?阿玉プロの師である陳金獅プロに最初に
教わった。「ボールを打つのではない。ティーを打つのだ」と言うのがその第一歩で、私のゴルフ人生に大いに役立った。
先の陳蘭皋さんも後年台湾の要人として来日された折に再開した。「松永さんの水車、未だ回っているよ」と言われた時は、嬉しさと懐かしさに
感激して絶句した。当時交換した名刺は全部保管しているが、鬼籍に入られた方々も多いと思うと感無量である。