先輩から
第21弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第21弾「私の就活」
松永 巌
昭和二十五年、東大工学部卒業予定の私は貿易関係の仕事を希望し、当時財閥解体で分割されて居たD物産に願書を出した。
所が同級生のO君も同じD物産を希望と後で聞いた。
彼はD物産のN社長の息子と一高の寮で同室と言う有力なコネがあった。しかも採用は一名だけで彼に決まって終わった。
途方に暮れていた或る日、就活(当時無かった言葉)担当のY教授に呼ばれて個室に伺った。そして「松永君は就職を止めて大学に残り給へ。
お金は特別研究生として支給してやる」と言はれて吃驚仰天。全く選択肢に無い話であった。私は即答を避けたが家族と相談の上了承した。
当時の大学院は今と全く異なり、研究費も乏しく、ペーパーの勉強と助教授のお手伝い位が日課であった。二年経ち前期(当時大学院は
前期三年、後期二年)終了を目前にして、やはり自分は物造りの方が向いていると思い担当のS教授に相談した。教授は「解ったが君は
一体何がやりたいのかね」と尋ねられたので、「研究室で水力の事を少し勉強しましたから、その方面の仕事がしたい」と申し上げた。
教授は「そうか、それなら水力発電用の水車だな」と仰って当時の大手四社の名を挙げて夫々説明してくださり、最後に「M社が最近スイスの
会社と技術提携をした。この会社なら君も将来スイスに行けるかも知れないよ」仰ると私の目の前で、教授の一年先輩のM社のK常務に電話を
なさった。私の事を色々話されてから受話器を置かれ「兎に角会いたいから直ぐ会社に来るやうに」との事であった。
外に飛び出し、教わった住所をタクシーに告げ琴平町にあったM社の本社を訪ねた。秘書に案内されて通されたのは意外にも社長室であった。
S教授の二年先輩のN社長とK常務から面接と言うよりお二人の大学時代の回顧談の様なものであった。最後に「来月事業所の担当部長が
来るので、その時又来る様に」と告げられた。
指定された日に再び本社を訪れ、同じ大学の先輩であるT部長の面接を受けた。二言三言質問され
「すぐにでも長崎の事業所に来られないか」と言はれた。
急いで大学に帰りS教授にお話をした所「大学から事業所に実習のための派遣として、三月末になったら大学院前期終了と言う事にしてやろう」
と実に寛大なお取り計らいをして下さった。昭和二十八年一月五日、東京駅から鈍行列車で遙々赴任地の長崎に向った。希望通り水車の設計に
従事し、八年目の昭和三十五年ローマ・オリンピックの年の四月、S教授のお話にあった念願のスイスへ、技術習得のため半年間派遣されることと
なった。丁度欧州で週休二日制が始まった時であった。
M社には長崎十八年、米国に現地法人設立と運営のためシカゴに五年、その他本社勤務を含め三十四年間お世話になり、昭和六十二年定年退職
した。
私の就活の面談面接をされた方々は皆大先輩であり、お情けに拾はれた様なものであった。