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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第20弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第20弾「海軍の飛行機」

松永 巌

 私は小さい頃から飛行機が大好きで、大学の航空工学科に入り、飛行機を作る技術者に成ることが夢であった。昭和十九年、高校生の時、 群馬県小泉(現太田市)にあった中島飛行機へ学徒動員で派遣、海軍機の製造に携わる事になった時は、大いに喜んだものである。
 終戦も間も間近く、物資も底を突きかけた頃であったが、彼の有名な単発単翼戦闘機、零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦、海軍記号A6)や双発単胴 単翼戦闘機(銀河、J6)の量産工場であった。しかし私と他に六名は、試作工場と言って、開発中の未発表の海軍機を作る工場に配属された。 特に機密性が高く、外国籍の学生等は除外され、胸に赤く縁取られた名前のタグを着けさせられた。
 作って居た飛行機はB29に相当する四発重爆撃機(連山、G8),高速偵察機(彩雲、C6)、ターボ発動機付特攻機(橘花、◎)などであった。
 私たち学生は連山の左隣の二基の発動機の取付けが担当であった。担当技師から取付用金具の図面を貰って、材料の払ひ出しを受け、曲げ、 溶接等適切な掛に行って加工を頼み、機体に取付け、それ等の金具に、クレーンで運ばれて来る発動機を固定するのである。
 材料が無かったり、部品が足りなかったりして思う様に捗らなかった。又最も難しかったのは、当時のネジは振動でナットが弛むのでナットの 斜めの面に直径一ミリほどの孔を電動ドリルで開け、隣のナットに開けられた孔とに針金を通し、互いに弛まない様に針金を絡げる事であった。 所謂”絡げ線“と言はれるものである。斜面に直径一粍の孔を開けるのは至難の業で、技巧を必要とし、学生で出来るのは私だけであった。 後で墜落した敵の発動機を見ると、この”絡げ線“は無く座金(ワッシャー)の一部を折り曲げただけであった。基本的に製造技術にそれだけの 差があったと言う事である。さらに言へば、あれだけ四発の重爆B29がじゃんじゃん飛来して来ているのに日本で完成した四発の重爆撃機は、 陸軍には無く海軍の連山四機だけであった。しかも飛行したのは二機のみと言ふ比較にならぬもので、勝てる理由が無い。
 最新と言ふべき特攻機橘花も試作機一機だけ。ターボ発動機と言っても形だけ、多くの海軍士官の見守る中、何回も試みたが遂に起動しなかった。 機体も計器版もベニヤ板、若し飛んだとしても加速、減速でバラバラになると思はれた。顔見知りの海軍士官に「これでは持たない!」と言ったら 、小さな声で「帰って来ないのだから・・・・」と言ったのは今でも耳に残って居る。
 その後工場は艦載機P51の夜間爆撃を受け、スレートの建物がすっ飛んで閉鎖状態になり間もなく終戦を迎へた。
 戦後の日本は飛行機を作る事は勿論、飛行機の学問さへ放棄させられ、私が昭和二十二年大学受験の時は航空工学科は無かった。その後復活して YS11が出来、MU2,MU300などが続き、今やMRJ,ホンダジェット等が話題になって居る。