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先輩から

S20M 松永大先輩からの投稿です。
第19弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第19弾「終戦の思い出」

松永 巌

  昭和19年の暮れも押し迫った十二月、クラス全員が群馬県邑楽郡小泉(現大泉町)の中島飛行機へ学徒動員として行く事になった。
 付添い教官は数学の日下部先生とドイツ語の岡崎先生。最初出勤の日、門を入ったらエンジンと車輪の無い「ゼロ戦」が何機か並んで居た。 部品工場が爆撃で遣られたからである。私はこの時「日本は負ける!」と直感した。その夜教官室を訪ね両先生にこのことを話したら日下部先生が 「松永君、それは解っている。しかし、ここには憲兵が居るから他人には言うなよ」と仰った。
 配属は試作工場。量産の戦闘機「ゼロ戦」。双発戦闘機「銀河」以外の海軍の未発表機の四発重爆撃機「連山」、偵察機「彩雲」、特攻機「橘花」 等を作って居り海軍の技術士官が沢山居た。終戦後富士重工で「スバル」を開発した百瀬中尉(東大航空卒)もその一人。我々の担当は「連山」 の左翼エンジンの取付けであった。ナットが緩まないように六角ナットに細い孔をあけ「絡げ線」と称する針金で繋ぎ合わすのが大変であった。
 工場には工場長の飯塚技師を初めとし沢山の技師、技手、工員が居て皆親切にして呉れ、多くの名前を今でも覚えている。他に県外の高女など 女子生徒も来て居た。
或る時、アメリカの艦載機P51の爆撃で工場のスレートの屋根がすっ飛んで、近所の民家へ工作機械などを引きずって行った。
 時には機銃掃射を受ける危険もあって生産など出来る状態ではなかった。B29がバンバン飛んで来るのに飛行した四発重爆撃機は「連山」二機 だけ。勝てるわけが無い。
 寮は工場付属の矢島寮、同室に6名の同級生が居たが現在では偶然近くに住んで居る宮君との二人だけ。食糧事情が悪く話題は食べ物の事ばか り。宮君には胃腸薬と称し母上から時々食物が届いて居た。私は何時までも布団が届かず皆に迷惑を掛けた。同じ寮の別棟に東大法学部の学生が 居り船橋尚道(後法大教授)と言う人と知り合いになった。小生の持参したポータブル蓄音機と父が日本光学の社長であった白浜君の洋楽レコードで 東大生とレコードコンサートをやった事もあった。事務所の方に居た東北大数学科の阿留多伎長門と言う人とも知り合いになり数学を習った。
 終戦の玉音は試作工場の朝礼の場所で正午に聞いた。“敗けた!”と解った。直ぐ阿留多伎さんの所へ走った。そして泣いた。「負ける!」 「敗けた方が良い!」と思った事も度々あったが、やっぱり残念だった。職場へ帰ったら工員の黒田君が居た。大きな彼の体にしがみ付いて 泣いた。黒田君が「本当に駄目か?」と聞いたので、「駄目だ!」と答えたら彼も泣いた。寮に帰って教官室に行ったら岡崎先生に代わって英語の 川地先生が居た。彼は米国コロンビア大学の出身で「アメリカ兵が来る。アメリカはデモクラシーで日本もデモクラシーになるがアメリカは決して 野蛮な事はしない」と言はれた。翌朝桐生工専の者が来て「桐生の者はここに留まりアメリカ兵が来たら刺し違へて死ぬ!」などと言うから、川地 先生の話を懇々としてやり「我々長岡工専の者は大人しく郷里に帰って時勢を見る」と言ってやった。
 切符をどうして手に入れたか忘れたが、熊谷の町が空襲でまだ燻る夜、レコードと身の回りの物を入れたトランクと例のポータブル蓄音機を両手に 提げ、三尺帯を腹に巻いて、水筒を肩に掛け夜通し小泉から熊谷駅まで歩いた。駅に着いたら夜が明けた。満員鈴なりの列車が漸く入って来た。 乗れそうもない!その時車内から兵隊が声を掛けて来た。「水筒に水が入っているか?」と。「入っている」と答へたら「一口飲ませて呉れ、 そうしたら足二本分だけ場所を空けてやる。荷物の場所は無いぞ!」と言う。「解った!」と言って腹に巻いて居た三尺帯で二つの荷物を振り分け にして窓の外にぶら下げ、躰だけを車内に引っ張り込んで貰った。
 荷物はぶつかって毀れたらそれ迄と思って居たが、郷里の見附駅(新潟県)迄無事着いた。家に帰って話をしたら皆に笑われたが学校が始まるまで 毎日の様にレコードを掛け音楽を聴き楽しんだ。