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先輩から

S20M 松永大先輩が雑誌「ホトトギス」に掲載した中からの投稿です。
第18弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第18弾「屋上ベランダ」

松永 巌(朔風)

 昭和五十一年(一九七六)の一月、大田区に三十五坪(一一五平方米)の土地を見附けて購入契約をした。坪七十五万円であった。
 契約直後の或る日、上司に呼ばれて執務室に入った。すると、「松永君、土地を買ったそうだが、家を建てるのは暫く待ちたまえ」と言われた。 「何故ですか?」と尋ねると、「シカゴ駐在の岡山君が帰るので、その後任に行って貰いたいのだ」とのご返事。社命とあらば仕方なし。 購入した土地は、駐車場として不動産会社に管理を委託する事とした。
 約五年の米国勤務を終えて、昭和五十五年(一九八〇)本社部長に着任した。早速、土地を更地に戻し、自宅の建設計画に入った。
 場所は東京工大の近くで、環状七号線(通称環七)からワン・ブロック入った東南の角地であるが、環七の騒音は想像を絶するものがあり、 先ず遮音性の高いALC(軽量発砲コンクリート)建材とすることにした。この代表的製品は旭化成のへーベル・ハウスで、この角地には 既に二軒がへーベル・ハウスにしてあり、話を聞き私も同じものに決めた。
 基本的にはドイツの会社の設計であって、外壁と内壁の間に十糎の空間があり、ここに鉄骨が収まり、且遮音性、保温性、結露に強く、二階建 である。屋根は普通の合掌タイプではなく、ビルの様に完全にフラットであり、ベランダとして使用できる設計である。
 従って屋根には特殊なブロックが敷き詰められて居り、これを固定するため特別な方法が取られて居る。
 この屋上ベランダに上るための手段として、外部から直線階段で昇るか、二階のベランダから螺旋階段で昇るかの二つの方法が考えられた。 螺旋階段の方が便利で格好も良いが値段が高い。二者択一を迫られたが値段を犠牲にして螺旋階段にした。
 鉄製であり、防錆のため、定期的に塗装をする必要があるが、便利で体裁が良い。
 屋上に太陽熱による温水設備も考えたが、採算が取れぬため取り止めた。その結果、二階の屋根全部が広々としたベランダになった。
 風当たりが強いので、高い物や洗濯物は置けないが、背の低い物置など重量物を入れて置いた。何よりも、ここでゴルフの練習が出来るのが 楽しかった。
 時々ペットの犬も連れて上ったが、小さくて柵を抜けてギリギリまで身を乗り出すので見て居られなくて、連れて行くのは止めた。
 このベランダでの最大の思い出は、新皇后雅子さまの事である。
 雅子さまの御生家小和田家は、私の家の東側の道路を環七を突っ切って進んだ道路沿いにあり、歩いて数分の距離で、犬の散歩で通った事も ある。
 当時、皇太子殿下(現天皇)がお忍びで、お越しの事もあるらしく、その様な時は、拙宅の角にも警官が立って居る事もあった。
 平成五年(一九九三)六月九日雅子さま御婚礼の日、雅子さまのお車は小和田家の前の道路から環七にお出になり、左折してお越しになる事が 解って居たので、家内も含め近所の人が環七に沿って黒山の様にその時を待って居た。
 私は家の屋上ベランダに上れば一望出来ると思い、ギリギリになって屋上へ上った。
 その時である。ボリューム一杯のスピーカーで「松永さん!屋上に上るのは止めて下さい。その儘で居るとヘリコプターから撃たれますよ!」 と怒鳴られた。高い所から見下ろす事は不敬に当たると言う。家の前に立った事のある警官であった。近所中に聞こえたと思うと、今考えても 汗顔の至りであると同時に雅子さまの晴れのお顔を拝する事が出来なかった事は、皇后陛下にお成りになった今日、残念で仕方が無い。
 この家は、年老いて一戸建てに住む事は負担が大きいと言う事で、平成一七年(二〇〇五)姉の孫夫婦に譲って、現在の横浜の高層マンションに 居を移したが、へーベル・ハウスは築四〇年近くになっても健在である。