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先輩から

S20M 松永大先輩が雑誌「ホトトギス」に掲載した中からの投稿です。
第13弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第13弾「不時着」

松永 朔風(巌)

 三菱長崎造船所で、機械設計課長をして居る時に、アメリカの会社と技術提携をして、自動車のタイヤを作る機械を製作していた。
昭和五十一年(一九七六)米国駐在として赴任した頃は、この事業も軌道に乗り、海外に輸出するまでになって居た。
 ブラジルに三菱の子会社があり、距離のある南米には輸出より、現地生産すべきと考え、アメリカの技術提携先と、三菱重工、ブラジル三菱の 三社会議をブラジルに設定した。
 昭和五十二年七月六日、初めて米国からブラジルに出向くこととなった。シカゴからNW七〇八便でマイアミに行き、通関手続を経てPA 四四一便でサン・パウロに飛んだ。
 サン・パウロで打ち合わせを済ませ、七月十四日、サン・パウロからリオ・デ・ジャネイロ(以下リオと呼ぶ)にあるブラジル三菱の本社へ 挨拶に行き、夕方のPA四四〇便で、リオからマイアミに飛ぶ事にして居た。
 夕方リオの会社の日本人社員が、空港まで送って呉れて、チェックインを済ませ搭乗案内を待って居た。中々案内が無かったが、リオの社員は 「これがブラジルですよ」と、それとなく、なんとなく事が進んで行くのが普通だと言う。
 漸く夜十時頃になって搭乗する事が出来た。着席したら、キャプテン・スピーキング(機長挨拶)「この飛行機は大食漢(ガス・ガズラー)で 燃料を余計食うので、チェックしていて遅くなった」などと英語で冗談交じりの挨拶をし、離陸後直ちに食事が出た。
 夕食を食べてなくて、腹が空いて居たので、一生懸命食べて居た。
 そこへ再び緊急キャプテン・スピーキングと言う。機長は今度は緊張した口調で「急激に燃料が消耗する。リオに引き返すが、途中で予期せざる 着陸になるかも知れない。最小限の燃料を残して今から燃料を放出するので、絶対煙草を吸うな」と言う。これは大変な事になったと動揺を 禁じ得なかった。今まで数百回飛行機に乗ったが、一度も経験した事が無かった。只菅リオまで無事到着する事を祈るのみであった。
 客室乗務員は火事場の様に、大慌てで食事を片付けた。隣席の男は米国人で、名前をスティーヴと言い、英語とポルトガル語(ブラジル国語) のバイリンガル。この男と離れては言葉が解らなくなると思い、彼にもその旨話し、絶対に離れてはならないと思った。
 不安の中にも幸いに、リオ空港に辿り着き、ホッとして一同拍手をした。深夜一時を過ぎて居て、グランド・サービスは手薄だったが、たった 一つカウンターが開いて居り、宿泊するホテルの手配をして居たが、乗客が一斉に殺到し捌けない。スティーヴは「これは駄目だ。タクシーを 捕まえて自分で探そう」と言う。この男の言う事に従うしかなかったので、その通りにした。タクシーに、ポルトガル語で、「どこでもよいから ホテルを探せ!」と言って居る様であった。タクシーはホテルの表示のある所で止まって降りた。様子からラブ・ホテルの様であるが、もう 午前二時は廻って居たので、文句など言って居れない。しかも改装工事中で、不完全な部分もあり、部屋にはカーテンも無かった。兎に角眠い。 スティーヴと別れてベッドに潜り込んだ。疲れて居たので、カーテンが無くても日が高くなる迄寝た。ブラジル三菱に電話をして、一部始終話を した。大体の地理が解ったので、そこを動くなと言って、三十分程して迎えに来て呉れた。取り合えず会社に行って休憩し、その日の夕方同じ PA四四〇便でマイアミに向った。定刻に出発トラブルは無かった。
 不時着と言っても何とか空港に辿り着けただけでもラッキーであったと、今でも思って居る。