先輩から
第11弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
第11弾「不発弾」
松永 朔風(巌)
昭和十九年(一九四四)の暮、大東亜戦争も愈々険しくなり、戦闘態勢への参加を免れて居た、技術系の学徒にも、学徒動員と言う名
のもとに、兵器生産の現場へ参加する事になった。私の在学して居た長岡工業専門学校の機械系学生も、群馬県小泉の海軍機の主力工場、
中島飛行機製作所へ、全員が出向する事となり、十二月の数え日に入らんとする頃に郷里を出発した。現地の工場では、暮も正月も無く、
我々多少技術の知識ある者として、直ちに生産現場に組み入れられた。
大部分の生徒は、彼の有名な「零戦」と、「銀河」と言う双発戦闘機の生産に就いた。
私を含む数名は、未発表の四発重爆撃機「連山」の左翼の発動機の取付け、配管を担当する事になった。工場には大学卒の技術系海軍士官が
沢山働いて居た。
昭和二十年(一九四五)に入ると、戦況も急激に悪化し、国内の主要都市は、焼夷弾を主とする空襲を受ける様になった。
我々の派遣された中島飛行機製作所も、当然敵の攻撃目標にされ、焼夷弾ではない爆弾を落とされ、警戒警報、空襲警報はしょっちゅう。
夜の灯火管制は厳重で絶対に外へ明かりを漏らしてはならぬ事になって居り、夜就寝中も、防空頭巾と言う綿入れのフードの様なものを被って
居た。
或る時、夜中に急にけたたましく空襲警報のサイレンが鳴り、遠くに爆発音が聞こえた。皆が我先にと部屋を飛び出し、寮の出入り口の傍に
あった防空壕に潜り込んだ。爆発音が数秒置きに聞こえ、而もだんだん近づいて来る気配であった。「近いな!」と思う頃、防空壕の外が昼間
の様に明るくなって居た。
そして至近距離と思われる所で爆発した。
砂塵が防空壕の中へ舞い込んで来た。「今度こそ我々の所だ!」と覚悟した瞬間、我々の壕を通り過ぎた所で炸裂した。「助かった!」と
思った。数秒間の出来事であったが、生と死の分かれ目であった。本当に弾の下をすり抜けて生き延びた。
翌朝、会社の者が来て、被害状況を確認した所、我々の防空壕のすぐ近くに落ちた爆弾は、不発弾である事が解った。また昼間の様に明るく
なったのは弾道を見るため、可燃物に点火された曳光弾が投下された事も解った。工場、建物には相当な被害があったが、死傷者が一人も
出なかった事は幸いであった。
あの爆弾が破裂して居たらと思うと、今でも背筋が寒くなる。
亡き母が「お前は生まれた時、胎嚢を被って居て、助産婦が、一分遅れたら死んで居た。生まれた時から運の強い子で、戦争があっても
お前は死なない」と冗談交じりで、良く言って居たのを、その時ふっと思い出した。