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先輩から

S20M 松永大先輩が雑誌「ホトトギス」に掲載した中からの投稿です。
第10弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第10弾「左 手」

松永 朔風(巌)

 小学校に上がる前、六歳の或る日、四歳年下の甥と乳母車で遊んで居た。型は古いが籐製の新品であった。 これに自分が乗って自分で動かす方法は無いかと考えた。
 農家である実家には、広い三和土の作業場があり、此処へ乳母車を運んだ。押手の所に縄を結んで、その縄を離れた所の何かに掛け、 乗って引っ張れば動く様にした。乗らないで、空運転で試して見たら旨く動いた。
 「よしっ!」と思って、甥は乗せずにまず自分だけ乗って、縄を引っ張った。動いた!
 しかし二,三米進んで止まった。「可笑しいなあ」と思い、力一杯引っ張った。乳母車は引っ張られた方向に倒れた。後で解ったのだが、 空運転では無かったが進む方向がずれて、敷いてあった莚の端に引っ掛かったのであった。
 咄嗟に縄を掴んで無い左手を強く地面に突いた。「痛い!」と思った。立ち上がって倒れた乳母車を起こそうとしたが、左手が動かない。
 母やお手伝いが畑から帰って来て昼になった。左手の痛いのは誰にも言わなかった。
 然し食事の時、茶碗を持ち上げる事が出来ないのを母が見た。そこで一部始終話した。
 母の顔色が変わった。食事もそこそこに、余所行きの服装にさせられ、母も手際よく着替え、私の手を引き三百米位あるバス停まで走るように 歩いて行った。十粁程離れた長岡市の病院に連れて行く為であった。バスはすぐ来た。バスは空いて居り、私は入り口近くに、二人分の席を取り、 悪い手を左側の空いた席に、掌を上にして座った。母は私の右側に座って居た。暫く走るほどに人が乗ってきた。その中誰かが、私に左手の席を、 空席と見たのと、バランスを崩し、私の左手の上に「ドスン!」と腰を下ろした。「ギャッ!」と言う様な声を出したのを憶えて居る。
 腰かけた中年の女の人は謝って他の席に移った。又暫く走って長岡市内に入る頃、私が左手でバス入り口のポールに掴まって居るのを、車掌が 見つけて母に告げた。バスの会社は叔父の経営する会社で、車掌、運転手は殆ど顔なじみであったから、運転手もバスを止めて、暫し私の手を見 て居た。痛みは初めの頃より随分治まって居た。しかし母は、此処まで来たからには病院に行くと言って、最寄りの停留所で皆さんに挨拶して 降りた。
 子供だったので良く解らないが、多分X線を撮られたのだと思う。医者は、バスの中で腰掛けられた時、脱臼したのが復元したのでは無いかと 言い、特別な事はしないで家に帰った。
 しかしこの左手は、今でも酷寒、酷暑時に不快な痛みがあるし、右手では出来る片手懸垂が、握力が半分位の左手では出来ない。
 ゴルフや剣道など左手を使うスポーツをやって来たが、強力なリストバンドをするなどショックの痛みに対応して来た。その後、精密に 左右X線写真を比較すると、尺骨と接骨の間隔が左の方が広い相である。六歳の時の怪我が、不完全に治癒した結果であろう。  曽て汀子先生が左手に怪我なされた時

   左 手 と 笑 へ ぬ 主 宰 山 笑 う   朔 風

と言う句を作り、社句会で汀子、廣太郎両先生にお取り頂いた。汀子先生が左手の使えないご不便を講演でお話になった事を思い出す。右利きでも 、左手の大切さは、本件以来数十年拳々服臍して居る所である。