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先輩から

S20M 松永大先輩が雑誌「ホトトギス」に掲載した中からの投稿です。
第8弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
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第8弾「私と車」

松永 朔風(巌)

 私が最初にハンドルを握ったのは、東大の二年生の五月祭の時である。自動車メーカーが、色々車を造り出した頃で、五月祭には展示の意味も含めて、新品のバスや乗用車を貸して呉れた時である。当時ガソリンの入手が困難で、顔の効く者が運輸省辺りに行って分けて貰って来た。危ない話であるが、公道ではない大学の構内で、人通りの少ない所を選んで、これ等の車を無免許で乗ったのである。
 会社に入社して五年後の昭和三十三年(一九五八)の半ば、自宅が三菱重工独身寮の近くのため、同じ職場の寮生二人と私ともう一人の四人で二万円ずつ出してフランス製ルノーの中古車を買った。誰も免許証を持たず、これで練習して取ろうと言う事で、車は寮の空地に置いて、隣の長崎大学付属小学校の運動場で、休日に集まって練習した。時には無免許で恐る恐る公道も走った。
 或る雨の日に私が乗って舗装の無い泥道の坂を下る時、ブレーキが効かず、タイヤが橇の様になり、ハンドルも効かず二米位の段差を落ちた。車は横倒しになり、私はドアを上に押上げて外に出た。幸いに落ちた所は藷の蔓が山になって、クッションの効果で車体には掠り傷さえ無かった。休日であったし、寮が近かったので寮に走って行き、二人が来て呉れた。ルノーが小さいからと言っても三人では起こす事が出来なかった。寮から電話で業者に依頼し、翌日レッカー車で道路に戻して貰った。本当に幸いなことに警察の目に触れることは無かった。若し見付かって居たら大変なことになって居たと思う。
 それでも免許は取ろうと思い、或る日バスで試験場へ下見に行った。自動車学校などまだ無く、近くに試験場と同じダットサンを貸す所があった。ルノーとは形から違って、ルノーは流線形、ダットサンは箱型、ギアの入れ方も違う。親父が「試験は何時か」と聞くから「明日だ」と答えると「それは無理だ」と言う。「でも兎に角乗ってみる」と言って借りた。いきなり道路を走った。数十分位乗って車を返却し、バスで帰った。そして翌日、試験場で必要な手続きをして実技に入った。直線、カーブ、信号、車庫入れ、先ず先ずミス無く出来て最後に、坂の途中で止めて再発進をする坂登である。ブレーキを踏んで車を止めたが、エンジン迄止まって終った。エンストである。ここで慌ててはいけないと一息ついてエンジンをかけスタートさせ、無事実技試験を終了した。結果的に一発でパスした。思い起こせば、あの大学の五月祭の時、校内で無免許運転で経験したのが功を奏したのだと解り、今でも感謝して居る。
 免許が取れたので、自分個人で英国製オースチンの中古を十五万円で買った。英国製と言えば聞こえは良いが、十万粁程度走ったポンコツで、ちょっとした坂も昇れず、坂の多い長崎では役に立たず、直ぐノックダウン(組立だけ国内でやる)のヒルマンミンクスの中古に変えた。値段は四十万円、最初のルノーの五倍。当時の私には負担は重かったが、ボデーは白馬のごとく真っ白でピカピカ、水色のモールが付き、アンテナも電動、LEDのごとき光のフォグランプなど、皆が羨ましがった。
 この車は長崎造船所の従業員では十四番目の駐車スペースを貰った。その後車の所有者は爆発的に増加し、構内駐車不可と言う事になった。私は当時本部から離れた職場で機械設計課長をして居り、本部との往来が多く、自分の車を使用して居たので、職場での駐車スペースは確保されて居た。その後コルトが出たのでコルトに変え、昭和四十六年本社に転勤するまで乗った。その頃新型ギャランの発売が始まろうとして居た。
 自動車好きで、三菱自動車の創設者でもある牧田與一郎と言う人が昭和四十四年三菱重工の社長になられ、ギャランを自慢されて居た。私は「ドイツのオペルに似てますね」と言って笑われたが、本社への転勤を推して下さり、重要仕事を任される様になったが、残念ながら社長任期途中で早世された。
 本社へ転勤して勿論直ぐギャランを買った。色はゴールドのデラックス仕様で自慢の車であった。これで関東一円のゴルフ場へ駆り出し、郷里の新潟へも夏休みに初めて出かけた。この時母に座敷に呼ばれてお説教された。「お前の体は、お前だけのものではない。家族のものであり、会社のものであり、日本の国のものである。事故にあったらどうする。二度と車で来るではない。列車があるのを知らぬのか。帰りは無理せず三国峠辺りで一泊して帰れ」と諭された。明治生まれの厳しくも慈愛のある母であった。一年後、深夜に母の訃報を受け、車で出発しかけたが、この言葉を思い出し、良く朝一番の「とき」で郷里に向かった。九十歳の今年免許更新の年であるが免許返上の年にしたいと考えて居る。