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先輩から

S20M 松永大先輩が雑誌「ホトトギス」に掲載した中からの投稿です。
第6弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
松永さん

第6弾「エレベーター」

松永 朔風(巌)

 千九百六十年初めて欧州に行った時から、世界で経験したエレベーターについて述べて見たい。
 日本で古い代表的エレベーターは、デパートのエレベーターで、白い手袋で、ユニフォームを着たエレベーター・ガールが居り、客の利用階を承り、まず手袋の手で、ピカピカに磨かれた真鍮の格子戸を開閉し、その後外扉を開閉して居た。エレベーター・ガールの手慣れた所作や美声を見聞きするのも楽しかった。今でもパリの古い街などで、この様な格子戸だけのエレベーターを目にする事が出来る。ただ欧州と日本の大きな違いは、階の考え方である。日本では地上が一階であるが、欧州では地上は「グラウンド」と言い、0階なのであり、日本で言う二階が、欧州では一階(ファース・トフロア)と言うのである。この点混同しない様にする必要がある。
 初めてイタリーのホテルに入った時、エレベーターに乗って驚いた。それは押されたボタンの順に行くことであった。例えば最上階の人が先に押し、次に五階の人が押すと、先に最上階に行き、それから五階に下がって来るのである。従って乗った人達が皆自分の行き先階を言ってから順にボタンを押して居た。
 そんな事は嘘と思うかも知れないが本当であった。初めは自分の泊まるホテルだけかとも思ったがそうでは無かった。それはミラノ駅前にエクゼルジオールと言う、例のムッソリーニが止まったという最高級ホテルでもそうであったからである。或る時、何時ものホテルが満室で現地の商社がこのホテルを取って呉れて泊った事がある。流石に立派なホテルでエレベーターも立派であったが、一緒に乗った高い階の人が、他の客の利用階を聞いてから自分の階のボタンを押して居た。半世紀昔の事で、現在の事は確認してないが、当時イタリーで見た事実である。
 これも半世紀前の話であるが、スイスに滞在中にドイツのハンブルグの電力会社を訪ねる事があった。ハンブルグに行くのには、もう一つの目的もあった。それは当時スイス周辺には日本料理店が一軒も無く、唯一ハンブルグに「湖月」という日本料理店があると聞いて居たからである。
 ハンブルグ電力の受付で「私はドイツ語が出来ない」(イッヒ・ニヒト・ケンネン・シュプレッヘン・ドイチェ)と言ったら
 「お前ドイツ語で話して居るではないか」と笑って「ホールにあるエレベーターに乗って三階だ」と教えて呉れた。ホールに行って驚いた。
 信じられない事にドアの無いエレベーターが止まらず動き続けているのを見た。人はそれに飛び乗り、飛び降りるのであった。社員の女性も、訪ねてきた客もである。躊躇して居たが、他に方法が無く意を決し、身構えて飛び乗った。降りる三階は直ぐだ。降りる人が居たので、その人の方に掴まる様にして飛び降りた。普通のエレベーターより遅いとは言うものの、停まらないし、深いシャフトの底の見えるのも本当に怖く、生まれて初めて経験した。
 帰る時には少々慣れたせいか人と同じように出来た。現在では法規上もこの様なエレベーターは存在しないと思うが、二度と乗りたくない。
 その後アメリカで経験した事では十三階のボタンの無いのが普通で、「開」「閉」のボタンの無いのも多い。ヒューストンでは馬に乗った儘乗れるような天井の高いものもあった。
 駐在時代事務所の在ったシカゴのジョン・ハンコック・ビルではノンストップで九十五階迄上がるものあり、九十五階にレストランがあり良く利用したが、飛行機に乗った時に耳に感じる「ポップ・イア」と言う現象が起き、途中可成りの振動がある。日本の十円硬貨を立てて居ても倒れないなどと宣伝して居るものとは雲泥の差である。
 その他面白いと思ったのはブラジルである。マンションのエレベーターには、止まってドアが開くと、我が家の玄関と言う合理的な設計になって居るものが多いが、日本では法的な制約があるのかも知れない。
 五十年の間に世の中も変り、エレベーターも変った。この所余り大きな変化がないが、未来のエレベーターがどんなものになって行くのか、色々考えるのも楽しい。