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先輩から

S20M 松永大先輩が雑誌「ホトトギス」に掲載した中からの投稿です。
第5弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
松永さん

第5弾「ロンカガッツリ小母さん」

松永 朔風(巌)

 スイスに辿り着いて、ホテル暮しの間に何人かの日本人に会う事が出来た。先ず時計輸入組合の八田さん、日本の時計輸入業者を代表して、同じホテルに逗留されて居て、朝の食事の時に良く同席してお話をした。細縁の眼鏡を掛けた初老の方で、物静かにお話をされる人であった。スイスにシーベル・ヘグナーと言う商社があり、日本との取引が多く、関さんと言う、私より若干年上の英語の旨い男性が働いて居た。彼は、ご主人の仕事で二十年近く日本に住んだ事のあるギーゼル小母さんの家に間借りして居ると聞いた。
 私も、何れ間借りをと考えて居たので、色々と教えて貰った。例えば、金曜日にデパートに行けば魚を売って居り、新鮮な大鮃なら刺身に出来るなど貴重な話もあった。
 一ヵ月位経った頃、会社の担当のマルティ氏に、間借りをしたいと話した所、厚生課のショッヘル氏を紹介して呉れた。彼の奥さんは、私が毎日昼食を頂く、幹部食堂のウエイトレスをして居て、歩くのにお尻が邪魔そうな立派な体格の美声の美女であった。
 紹介された家は、駅前から電車で十分程のラング・アッケルストラッセ(長畑通り)のエルザ・ロンカガッツリ小母さんの家。それ程大きな家ではないが、二階には部屋が多く、貸間には最適と思った。小母さんはイタリヤ系で、この人も良い体格で、薄い口髭が気になったが人の良さそうな感じで、借りる事に決めた。家賃は月七十スイス・フラン。日本円で六千五百円位。ホテルが一日十七スイス・フランであった事を考えると大変安い。
 小母さんのご主人は、昨年テニスのプレー中に心臓麻痺で急逝した由で、小母さんは五十歳だと言って居た。長男のグイドー君は三十歳、既婚であるが別居中との事、次男のジャンニー君は小学校五年生。彼の部屋の左隣が私の部屋とされて居た。右隣の部屋には東欧からの大学生が居た。部屋は玄関を入って直ぐの階段を上ると、狭いホールになって居て、左手前が私の部屋。天井が傾になって居る所謂屋根裏部屋で、広さは六畳程。家族、同居人を紹介されたあと、何時でも使用して良いとされたのがバス・トイレである。
 日本にもホテルや高級住宅には在ったのかも知れないが、私には初めての広々としたバス・トイレであった。奥に浴槽があり、洋式トイレはすぐ解ったが、もう一つは何か解らなかった。和式トイレの様であるが、水を貯められる様になって居て、中央に小さなメッシの目皿がある。端の方にコックが二つ付いて居たので右の方をゆっくり緩めて見たら、中央のメッシから噴水の様に噴き上げて来た。
 現在、日本ではウオシュレットになって居るが当時は見た事も無いものであった
 小母さんは、私が帰って来ると何時も「お腹空いていないか」と尋ねた。大体外食して居たが「パンなら在るよ」と言って、時々プロッテンと言う拳状の堅いパンとコーヒーを出して、お話をし、私の事を「Iwao、Iwao」と呼び、気を使って良くして呉れた。
 或る時「今日は外食せずに帰って来なさい。御馳走するから」と言われ、帰って見るとキッチンにピカピカの鍋が設えられて居り、サイコロ上に盛られたパンと串が置かれて居た。鍋にはチーズが溶けてクリーム状になって居り、小母さんが食べ方を教えて呉れた。「パンを串にさして鍋に入れ、溶けたチーズをたっぷり絡めて食べる。スイスの代表的料理でフォンデュと言う。初めてか」と聞かれた。勿論初めての事であり、ワインやキルシュ等と頂いた味は忘れられない。今では日本でも容易に口にする事が出来る。
 小母さんは、勿論車を持って居り、二十年以上も運転して居ると言って居たが、休みの日には郊外の景色の良い所へ連れて行って呉れた。車はスウェーデンのボルボ。日本ではまだ国際免許がなく、私も免許証を領事館で翻訳して貰った物を持参して居て、とても私に運転させて呉れとは言えなかった。
 小母さんはイタリヤ語はペラペラだったが英語は苦手で、英語で話し出しても途中でドイツ語になり、逆に私にドイツ語を教えて呉れる様になるのであった。
 或る連休で首都ベルンの見物に行って、例の道路上の大時計の写真を撮って来た。「今日は何処へ行って来たか」と聞かれたので「ベルン」と答えた。Belnと聞こえたらしく「Berrr----n」とrの音を舌を震わせるように直された。rとlの発音は後で米国駐在の時も悩まされた。
 さて、仕事の方も無事片が付き、愈々帰国する日になった。小母さんとジャンニー君が玄関先で見送りをして呉れた。小母さんは、しっかりと私をハグし「Iwao! 生きていたら何時か必ず会えるよ」と耳元でドイツ語で言って居た。
 二十二年経った昭和五十七年二月小母さんから便箋一枚の手紙が来た。四月六日に、日本観光の団体旅行で東京へ行くので会いたいとホテル名と時間が書いてあった。その日妻と二人でホテルに迎えに行き、文京区の椿山荘に案内し、奇麗な庭園を見せて会食をし、思い出話に花を咲かせた。ホテルに送って真珠製品のお土産を手渡した。昭和六十二年、三菱も退職近くなり、規定により夫婦で定年旅行する事になり、欧州を選んだ。当然の事乍ら、スイスに行って小母さんを訪ねる事を旅程に入れた。スイスに着いて連絡をした所、体調を崩し外出は出来ないと言うので、妻と二人で自宅を訪ね再会を喜び合った。
 小母さんは病とは言え、昔のような元気は無かった。その後も毎年クリスマスカードを交換して来たが、残念ながら数年後ジャンニー君から訃報が届いた。お悔やみの手紙と心計りのお花料を送ってご冥福をお祈りした。