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先輩から

S20M 松永大先輩が雑誌「ホトトギス」に掲載した中からの投稿です。
第4弾です。なお今後も定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
松永さん

第4弾「スイスにて」

松永 朔風(巌)

 昭和三十五年(一九六〇)四月十六日、私を乗せたスイス・エアSR503便のDC6・四発プロペラ機は、夜十時四十五分羽田を出発し、翌々十八日現地時刻午後二時四十五分、スイスのチューリッヒ・クローテン空港に無事着陸した。東京・チューリッヒ間の時差を考慮すると、丁度四十八時間即ち二昼夜掛かった事になる。先輩の教えて呉れた手順に従って、通関手続きを完了して外に出た。
 当然の事乍ら掲示、看板、目に入るものはすべてドイツ語。スイスは地方によって英独仏語を使い分けるが、チューリッヒはドイツ語圏である。ローマ・オリンピックの年で、胸に日の丸を付けた選手を彼方此方で見掛けたが、未だ商社などは無く、出迎えなども全く無かった。タクシーに乗って滞在予定の「ホテル・レオネック」に着いた。先輩諸公も利用されたホテルである。中央駅正面を出て、チューリッヒ湖を前方に望み、左手の坂道を昇った所。中央駅から動物園行き電車が右折する角の左側にある、小じんまりしたホテルであった。応対して呉れたのはビショップバーガーと名乗る支配人。小太りで短躯、ワッペンの付いた黒い羅紗の服にピカピカする飾りを一杯着けた老人であった。一ヵ月位したら、下宿か間借りをする積りで部屋を取った。翌朝早朝に隣の教会の鐘に驚いて直ぐ反対側の部屋に変えて貰うと言う事があった。
 因みに私の日当は、一ドル三百六十円時代十七ドル(約六千円)であった。外貨の乏しい時代であったが、外貨を稼ぐ企業には寛容であった。ホテルは一泊素泊まりで十七スイス・フラン。当時一スイス・フランは約九十円、即ち一泊千五百円程。私の月給は一万五千円位であったから、金銭的には可成り余裕があり、週休二日を利用して旅行なども出来た。
 着いた日の夜、食堂に行ったが食欲が全く無く、スープだけ飲んで休んだ。翌日も、翌々日も同じ状態が続いたが、今考えると時差ボケである。時差一時間を回復するのに一日要する事など知る由も無かった。回復の切っ掛けは生ハム(現地ではロー・シンケンと言う)であった。生のもも肉を塩漬けにし、アルプスの小屋で自然乾燥したものを薄く削って食べる。ワインやビールのつまみに最適であるが、之を食べて元気を取り戻した。
 生肉は日本では輸入禁止で持ち帰ることは出来なかった。
 終戦後十五年経過して居るとは言え、復興途上の日本から見ると文化の違いはあるものの、色々なものが珍しく、驚きと学ぶ事ばかりであった。当時、公害汚染などの言葉もなく、チューリッヒ湖も青々として居た。
 湖畔に商店街が集中し、有名なグロス・ミュンスター(大寺院)を初め、幾つかの教会の尖塔が競う様に建って居た。空気もアルプスの下界のせいかとても新鮮な感じがして、何処を写真に撮っても絵葉書のように綺麗に撮れた。当時スイスは印刷技術が優れて居り、この綺麗な景色をカレンダーにして輸出して居た。
 また時計の国として有名で、街にはオメガ、ロレックス等を始めとする一流ブランドの店が連なって居た。勿論日本製品など影も形も無かった。高級品は驚く程高価で、確かオメガの高級腕時計コンステレーションは約四百ドル(日本円で約十五万円)。私の月給の十倍位でとても手が出ず、オメガでも安いシーマスターと言う品を買った。日本には未だ無かった日付入りで、而も文字の所がレンズになって居て、日付が拡大されて見えて驚いた。数万円だったと記憶して居る。
 運転免許を取ったばかりであったが、国際免許など無く、領事館に行って翻訳したものを持参したが、遠出をする時は、会社がドライバー付きの車を用意して呉れたので必要としなかった。
 スイスでは何処に行っても窓辺に赤いゲラニュウムの花を咲かせて居り(偶に白い花もある)、町の美観を保つための法律があるとの事である。後に間借りをした最初の日、洗濯をして、窓に干したら家主の小母さんが素っ飛んで来て、外に干してはいけない国だと言って家の中の干す所を教えて呉れた。
 禁煙車両のある事も初めて知った。当時私は、一日四十本位の喫煙者であった。或る時汽車(実際は電車)に乗って、やれやれ一服と、煙草に火を付け、マッチの燃え滓を捨てようと彼方此方灰皿を探して居たら、前に座って居た婦人が「この車輛は禁煙車、入口にちゃんと書いてあるから、良く見て乗りなさい」と注意された。降りる時確かめたら、確かに「ニヒト・ラウヘル(禁煙)」と書いてあった。今でこそ禁煙分煙などと喧しいが、当時の日本には無かった事である。煙草はKIOSK(日本のKIOSKの元祖)に行くと、欧州各国の色んな煙草が並んで居て美観であったし、毎日違う煙草を吸って見るのも楽しみであった。
 兎に角色々な事が初体験で、失敗ばかりであったが、身に付けるものにもあった。
 支度金で買った高級な靴。昔の靴は歩くとキュツ、キュツと音がしてこれが見栄でもあった。所がこの靴を履いて静かな設計室を歩くと、皆が私の方を見るので、後で友達になった若い設計技師のグラバー君に聞いたら、音の出る靴なんか可笑しいよと教えて呉れたので、彼の案内で靴屋に行き、イタリー製の音のしない柔い革の靴を買った。恥ずかしくも楽しい笑い話である。
 洋服も黒っぽい日本製は環境に合わないと思い、思い切って水色にグレーのストライブの入った派手なものを既製品で買った。
 或る時、グラバー君に招待されてレストランに行き初めてワインなるものを味わった。
 彼らはこんなに美味いものを飲んで居るのかと思った。初めての事で量も解らず、飲み過ぎてグラバー君に、ホテルの階段を担いで貰ったのも懐かしい思い出である。帰国後も毎年クリスマス・カードと一緒に奇麗なカレンダーを送って呉れて居たが、今は途絶えて消息の分からないのも淋しい気がする。
 グラバー君の上司の課長はギジーさんと言って、ドイツ語しか話せず、やむを得ず何回も私の拙いドイツ語で技術的な話をした。
 会社の中の至る所に掛けてある見事な水彩画は、皆ギジーさんの作品と知り「一枚下さい」と所望したら、全部会社にあげた物であるから「新しく画いてやるよ」と仰しゃるので、余り当てにしないで待つ事にした。帰る時に私も忘れて居たが、帰国して暫くして彼から絵が届いた。私が良く散歩で行った丘の上から、ガスタンクのあるガス工場を写生したA3位の大きさの立派な水彩画で、彼が約束を守って呉れたことに感激し感謝の手紙を出した。この絵は今我が家のリビングを飾り、毎日眺めて往時を追懐して居る。
 絵ではないが、町を散歩して居る時に、刺繍屋にグロス・ミュンスターを刺繍にした物を見付けた。下絵を描いた材料を売って居たので、買って帰国して自宅で暇を見ては針を動かし、数カ月掛かって完成し、これも拙宅の廊下を飾り、毎日目を楽しませて居る。
 毎日が本当に別世界に住んで居る様な感じがして、幸福を満喫して居た。そして、ひょっと、こんな幸福を独り占めするのは申し訳ない気がして、上司の部長に手紙を書いた。 
 内容は「大学の同級生の首藤君もスイスに派遣してやってほしい」と言うもの。
 首藤君は九州人で、第五高等学校から東大卒業後直ちに長崎に就職、大学院三年を経て入社した私より会社は先輩、仕事は蒸気タービンの設計、技術提携先も同じスイスの会社であった。念願叶って二年後、彼も同じ会社に派遣された。彼の話によると、部長は私の手紙を見せて「何かテーマを見付けたら派遣する」と仰しゃったそうで、彼はこの話を級会の度に皆に話し「俺は松永のお陰でスイスに行けた」と言って居た。私もその話を聞く度に「良い事をしてやったな!」と嬉しかった。しかし彼も十年程前に他界し、話を聞けなくなった。級会で嬉しそうに話す彼の笑顔は今でも忘れられない。